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部活が始まるまで、あと少し。 みんなはすでに、テニスコートへと集まっている。 なのに、わたしと不二先輩は、部室の中で2人きり。 「ちゃん、話があるから、ちょっと残って」 備品を取りに、ほんのちょっと部室に入っただけだった。 でもその短時間で、不二先輩はわたしの異変に気づいたんだ。 どうしよう……ドキドキする。 ものすごく、ドキドキする。 いつもと違って不安定な自分を、わたし自身、もうどうにもできなくて。 ならいっそ、不二先輩にすべてを委ねようと思った。 思ったけど、いざそうなると、やっぱり落ち着かない。 そんなわたしの頬に、不二先輩の手がそっと触れ、胸の高鳴りは最高潮になる。 「緊張する?」 目に見えて明らかなわたしの強張りに、不二先輩が問いかける。 「だ、だって……わたし、こんなこと初めてで……」 「大丈夫、肩の力を抜いて。全部、僕にまかせてればいいから」 そうは言っても……。 だってそもそも、こんなことになるなんて思わなかったもの。 「んっ……」 でも、いろいろ考えてたら、あっという間に、わたしの唇は不二先輩に塞がれてしまい―― 「おまえたち! 部室で何をしている!!」 「わっ! バカ、手塚!」 「今入ってっちゃ、まずいっスよ!」 心なしか慌てた様子で、乱暴にドアを開け、手塚部長が飛び込んできた。 その激しい音に、思わずビクッと震えるけど、不二先輩は動じない。 そして部長の後ろから、菊丸先輩や桃といった、他の面々の姿も見え……そんなみんなを、不二先輩はいつもの笑顔で出迎えた。 「やあ、手塚。それに、みんなもどうしたの? そんなとこで固まって」 うわっ、白々しい。 どうせ、わかってたんでしょ。みんなが部室の外で、聞き耳立ててたこと。 みんなは、不二先輩に鼻をつままれ、なおかつ手のひらで口を塞がれてるわたしを見て、何が何だかわからないという顔をしていた。 その間ずっと、不二先輩の手は離れない。 全然離れない。 本当に離れない。 っていうか、離す気がない……? 「んっ!? ふっ、ううっ……!!」 「ふ、不二、そろそろ離してやれよ」 「あ、忘れてた」 嘘つけ! むちゃくちゃ、力入れてたじゃん!! 見た目に反した、頑強な力。 それが緩むと同時に、わたしは涙目で、不二先輩の手を振り払った。 「ひどい、不二先輩! やっぱり、先輩を信じたわたしがバカだっ、ひっく」 「あー、やっぱりダメだったね」 「つーか、まだ止まってなかったのか……」 海堂くんが、どこか感心したように言う。 確かに、ずーっと出っぱなしだからね、このしゃっくり。 そう、かれこれ2時間以上……。 事の起こりは昼食後。 何の前触れもなく、ふいに出始めたしゃっくりは、止まることなく、とにかくひたすら出続けた。 最初のうちこそ、みんな心配してくれた。 でも5時間目を経過して、6時間目にもなると、さすがに周囲も慣れてきて。 おかげで、最終的には先生を始め、クラス中からも、見事に無視されちゃったんだ。 わたしの苦しさは、その間ずっと続いてたのに! 「本当に、2時間以上止まらないの? 水は飲んでみた?」 心配そうに問う河村先輩に、わたしはしゃっくりしつつ頷いた。 そう、水を飲むとか息を止めるとか、できることは、すでにいろいろ試していた。 それでも、どうにもならなくて。 だから、たまたまわたしの異変に気づいた不二先輩に、助けを仰いだんだ。 「やっぱり無難なのは、息を止めてみることだね」 「でも止、ひっく、めてる間もしゃっくりが出て、我慢しき、ひっく、れないんですよ」 「なら、僕が協力してあげるから、もう一度やってみない?」 そうして不二先輩の手を借りたわけなんだけど……なんだか、単にからかわれただけな気がする。 でもそれを聞いて、ようやくみんな、この状況に納得したようだった。 「なーんだ。そういうことか」 「リストバンド忘れて部室に入ろうとしたら、深刻そうに2人が話してるから、何だか入りづらくってさ。そうこうしてるうちにみんな集まったんだけど、そのうちこんなこと初めてとか、全部僕にまかせてとか言い出すから、ビックリしたにゃー」 真相はそんなものかと言いたげな桃。 そして菊丸先輩のことだから、一度は驚きつつも、すぐさま興味津々に、中の様子を窺ったんだろうな。 その様子が目を引いたから、みんなも集まってきたんだと思う。 「で、手塚が飛び込んできたんだ」 「でも不二先輩、ひっく、気づいてましたよね?」 「そりゃ、あれだけ外で騒いでればね」 「騒いでた? 何も聞こえなかったけど……」 「いや、ひそひそ騒いでたよ」 はたしてそれは、騒ぐというのだろうか? 確かにひそひそ声というのは、時として、やたら耳につくけども……。 「理由がわかったなら、もういいだろう。そろそろ部活を始め――」 「ひっく」 部室に押し寄せたみんなを、コートへ促そうとした手塚部長。 でもその言葉は、わたしのしゃっくりで、ふいに中断した。 「しつこいな……」って、言われなくても、そんなのはとっくの昔に、心底思ってるの! とにかくこのままじゃ、落ち着いて部活が始められない。 なので急遽、わたしのしゃっくりを止めるための会議が開かれた。 「じゃあ、ビックリさせるのはどうだろう?」 「ああ、あれもいいっていうよな」 大石先輩の提案に、河村先輩が同意する。 でもわたしは、静かに首を横に振った。 「さっきの手塚部長の乱にゅ、ひっく、にすごくビックリしたけど、全然きい、ひっく、てないです」 「ほんと、見事なまでに効果がないね」 「無難なのは、水を飲むことなんだけどな」 「水を飲、ひっく、んでもダメでした。っていうか、飲みすぎて、ひっく、水腹なんです」 息の続く限り一気飲みするとか、コップの向こう側から覆いかぶさるように飲むとか、クラス中から聞いた水絡みの方法は、すでに試しすぎて腹ボテなんだ。 でもこれで、息を止める・水を飲む・驚かせるの、しゃっくりを止める三大方法は試し終えた。 にも関わらず、止まらないということは……一体どうなるわけ? でも、わたしが予測不能な未来に震えている中、所詮他人事と気楽な後輩は、呑気にこんな質問をしてきた。 「そもそも、なんでしゃっくりって出るんですかね?」 ちょっと越前、素朴な疑問は後にしてよ。 でも、そんなどうでもいいことに、メガネを不敵に光らせたあの先輩が口を出す。 「しゃっくりとは、別名、横隔膜痙攣と言ってだな、その名の通り、横隔膜の痙攣によって起こる症状で――」 「乾、その講釈は後にした方がよさそうだぞ」 「……そのようだな」 どうやら、切羽詰まったわたしの、殺人的な視線に気がついたらしい。 越前も乾先輩も、そのまま何もなかったかのように目を逸らす。 でも次の瞬間、何かを思いついたらしい乾先輩が、ふいに「あ」と声をもらした。 「なら、これを飲んでみるのはどうだろう?」 「……何ですか、それ?」 連続するしゃっくりが苦しくてうっとおしくて、結構まいってしまってたわたしは、乾先輩からもらったそれを、なんのためらいもなく受け取ってしまった。 この人絡みの、飲み物の恐ろしさを知っていながら……。 冷静な判断ができないって、本当に恐ろしい。 みんなが声高に止めるのもきかず、わたしは謎の液体を、一気に飲み干してしまったんだ。 ――その後の記憶は、定かじゃない。 何だか、遠くの方で「わーっ、!?」とか、「しっかりしろ、!」とか、「は、早く保健室に!」とか、「おかしいな。こんなはずでは……」とか、言われてたような気はする。 そして気がついた時には、わたしは保健室にいた。 何があったのか、イマイチよくわからないんだけど……。 でも、あまりの出来事を迎えたからか、ふと気がつけば、あれだけしつこかったしゃっくりが、いつの間にか止まっていた。 うーん……恐るべし、乾汁。 でも、ちょっとだけありがとう、乾汁。 けれどあなたに感謝するのは、きっとこれが、最初で最後のことでしょう。 −END−
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