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本日の学校生活は、彼氏の様子に違和感を抱くところから始まった。 不二くんの様子がおかしい。 挨拶をすれば返してくれるし、話しかければ答えてくれる。 でもそこに、いつもの優しい笑顔はない。 憂いと憤りを全力でかき混ぜたら虚無が生まれました、みたいな複雑極まりない表情をして、静かに席についている。 何かに思考を囚われている――そうとしか説明しようのない、本人にしかわからない感情が、今日の不二くんを形作っていた。 彼女のわたしだけでなく、他の人たちにも分け隔てなく優しい彼が、朝からずっとこの調子。 こんなにわかりやすい異常事態もなくて、今日の3年6組はどこか緊張感に包まれていた。 休み時間になったところで、わたしと菊丸くんはどちらからともなく教室を出る。 そして不二くんからしっかり距離を取ったところで足を止め、すぐさま彼の友人に疑問を投げかけた。 「菊丸くん、正直に言って。不二くんに何をしたの?」 正直な話、絶対に菊丸くん、もしくはテニス部の人たちが何かやらかしたと思ったの。 普段身近にいる相手と何かあったからこそ、ああいう態度に出て、不満を露わにしてるんだって。 ところが未だかつてないわたしの真剣な問いかけに、菊丸くんは全力で異議を申し立てた。 「なんで俺のせい!? ていうか、俺はが何かしたんだと思ってたけど!」 なんでわたしのせい!? わたしは不二くんに癒しを与える存在よ! ……って、言い過ぎました。言ってて恥ずかしくなりました。これはただの願望です。 どうやらわたしたちは、互いに互いを不二くんの異変の原因だと思ってたらしい。 それが違うとわかったことで、さっそく謎の解明は遠ざかってしまった。 「週末のデートで喧嘩したとか、そういうことじゃないの?」 「昨日は不二くんに用事があったから会ってないよ。じゃあ、部活でも何もなかったんだね」 「もちろん! 不二の態度がああだからさー、2人の間によっぽどすごい揉め事が起きたんだ、あいつらやべえ! ってが呑気に登校するまで、俺めっちゃハラハラしてたんだぜ」 仮に喧嘩したとして、あの温和な不二くんにあんな顔をさせるわたしは、一体に何をやらかしたというのか。 そんな不満はひた隠し、「週末」というキーワードに思考を切り替える。 一昨日の土曜日は部活、そして昨日の日曜日は、久々に家族全員が揃うので、みんなで食事をすると言っていた。 どこかのレストランへ行くわけでもなく、自宅でのごくごく普通の家族の団欒。でもそんな普通が、不二くんにとってはかけがえのない瞬間でもある。それは久しぶりに弟さんに会えるって素直に喜んでいた様子から、諸々の事情を知っている人には察してもらえると思うんだ。 だからこそ、とてもじゃないけど、こんな表情を作り出すイベントになるだなんてありえない。 仮に不二くんが弟さんに構い過ぎて怒らせたとしても、ちょっと凹むとか残念がるとか、そうした反応になるはずだし。 つまり、和気藹々とするはずの一家団欒イベントで何かが起きた。 そしてその何かは、確実に喜ばしいものではない。 あのほんわかした不二家に亀裂が入るようなこと? なら、それは一体何なのだろう? 結局、頭を悩ませるだけ悩ませて、休み時間は終わってしまった。 その後菊丸くんが思いきって、何かあったのかと訊ねてたけど、不二くんはその時だけいつもの笑顔を作り上げ、「何もないよ」と答えていた。 そんな様子を見せられたら、かえって何も聞けなくなる。 あんなにあからさまな嘘をつくなら、彼にとっての答えは1つ。 何も答えるつもりはないってこと。 だからって、おとなしく引き下がれるわけないでしょう! 「疲れた時には甘いものだよ、不二くん!」 「いや、別に疲れてはいないんだけど」 問答無用! 普段はしない虚無顔のせいで頭痛がするのか、額に手を当てて深いため息を吐いていた不二くん。 それを続けざまに見たところで、わたしは不二くんを教室の外へ連れ出した。まあ行先は校内にある、ありふれた自販機だけど。とりあえず、ココアなんかいいんじゃないかな。 ささやかな移動と温かいココアで気持ちがほぐれたのか、不二くんはようやくあの虚無顔を手放してくれた。 どこか消耗した様子は否めないけど、いつもの不二くんに近づいただけで、わたしは満足だった。 やがて不二くんはゆっくりと話し始める。 「ごめん。心配かけたよね」 「うん。何かあった?」 「うん」 ココアを一口飲んで、不二くんは続ける。 「由美子姉さんがね」 歳が離れた不二くんのお姉さん。 何度かお会いしたことのある、優しくてきれいなその顔を思い浮かべると、 「おつき合いしてる人を紹介したいって、彼氏を家に連れてきたんだ」 単身赴任中のお父さんが帰ってきた、不二くんのご両親が揃っているタイミングで。 さらには、寮暮らしの弟さんが帰省している、不二家勢揃いのタイミングで。 そこへ妙齢のお姉さんが、おつき合いしている男性を連れて来る。 それを聞いて閃くのは、ドラマなどで観るワンシーン。 「それはつまり……娘さんを僕にください的な、そういうお話が?」 結婚のご挨拶という、人生の中でも上位に食い込む重大イベントが!? 不二くんは重々しくうなずいて肯定した。 それはめでたい! でも、思わず「おめでとう!」と言いかけたのを、なんとか寸前で押さえ込む。 だって今日の不二くんは、決して素敵な出来事を経験した顔じゃない。 めでたいことがめでたくない? それを考えると、次に出て来る結論は、 「まさかお姉さん……とんでもないダメンズを連れてきてしまったとか?」 きれいで優秀な女性が、「なぜこんな男と!?」ってタイプを選ぶ場合があるって聞いたことある。 でもそれに対して、不二くんは首を横に振る。 「そんなことないよ。まだ会ったばかりだけど、あの人はいい人で間違いないと思う」 「でも不二くんは、お姉さんの結婚に対して、何か引っかかることがあるんだよね」 「引っかかるっていうか……。正直、こうしたことに直面するまで、思いもしなかったことがあって」 「うん」 わたしは静かに話を聞く。 ぼんやりとだけどわかってきた。 お姉さんの結婚に際し、不二くんにとって思いがけず感じた何かがあって、初めて抱いたその感想に戸惑っているんだ。 不二くんはゆっくりと、自分の気持ちを紡いでいった。 「娘を嫁にやる気持ちって、こんなふうなんだなって」 …………………………うん? 「父親って切ないね」と、切なげに呟く不二くん。 少し考えてから、わたしは心からの疑問を口にした。 「今の、お姉さんがお嫁に行くって話だよね?」 つまりあなたは、嫁ぐ姉を見送る弟。 けれど直接の身内である不二くんには別の感覚があるようで、それに対して力強く反論された。 「生まれた時から一緒にいたんだ。それならもう、姉さんは娘同然だと思う」 「よし、不二くん落ち着こうか」 いつも通りのクールな表情だからわかりにくいけど、どうやらかなり動揺が激しい。 しかも考えに考えすぎて、とんでもない着地点に到達してしまったようだ。 「きっとをお嫁さんにもらう時、のお父さんはこんな衝撃を受けるんだ……」 ちょっと待って。迷走した挙句に、すごいこと言ったぞ、この人。 「そ、それはどうなんだろう?」 そりゃ世間一般の父親は少なからず衝撃を受けるだろうけど、少なくとも今のわたしに父のそんな様子は想像できない。わたしが結婚するとしたら、まだまだ先の話だもん。 「でも僕とつき合ってるんだから、そういう想像はしてるんじゃないかな」 なるほど、筋の通った予想だね。 ならば不二くん、わたしはあなたに言わなければならないことがあります。 「あー……あのね、お父さんは、わたしに彼氏がいること知らないんだよ。お母さんは不二くんとつき合ってるの、知ってるけどさ」 うちのお父さんって仕事で帰りが遅くなることが多いから、話す機会ってありそうでないし。 あと、彼氏がいるとわかればめんどくさい絡み方してきそうだし、今すぐ言わなくてもいいよねって、お母さんと相談した結果、そうなったんだよ。 ところがそれを聞いた不二くんは、信じられないと言わんばかりに目を見開いて、大きく声を張り上げる。 「ちゃんとおしえてあげてよ! いきなり見知らぬ男に愛する娘をさらわれるなんて、お父さんがかわいそうだよ!」 「飛躍しすぎだよ、不二くん」 けれど、父親という立場に感情移入した不二くんは止まらない。 「ここはお父さんのためにも、一度きちんとの家に挨拶にいかないと」 どうしてそうなるの! いや別に、不二くんを紹介したくないわけじゃないんだよ。 ただ、なんていうか……お父さんが嫌いなわけじゃないけど、わざわざ絡みに行く気が起きないんだよね。 下手に断り続けるのもおかしいし、どうしたもんかと悩んでいると、ふいに彼に手を握られた。 今度はどうしたと思いつつ目を向けると、不二くんはとても真剣なまなざしをわたしに向けていて。 「僕が挨拶に行けば、お父さんはすさまじい衝撃を受けると思う。でも決して、にもお父さんにもお母さんにも後悔はさせないから」 ――今わたしは、奇跡的な瞬間に立ち会っている。 不二くん、ちゃんとわかってる? 今、わたしにプロポーズしてるんだよ。 不二くんと過ごす時間に、想像でだって後悔する未来なんて見えない。 むしろわたしを選んだ不二くんが、後悔するんじゃないかって不安の方が大きいよ。 でもそれを口にすれば、「どうして僕がとの将来を後悔するの?」と、心底不思議そうに言うから。 「ありがとう。すごく嬉しい」 目の前で優しく微笑む不二くんに、わたしは彼に負けない微笑みを返した。 「じゃあ今度の日曜、の家に行くね。お父さんの予定、大丈夫かな?」 待って待って、とりあえず段階を踏もう。 彼氏がいることを言ってないのに、いきなり彼氏が挨拶に来たら、お父さん今日の不二くんみたいになっちゃうよ! まずはきちんとお父さんに伝えるから。話はそれからだよ。 父親への挨拶に前のめりな不二くんを押しとどめるのは、本当に本当に大変でした。 −END−
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