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23.差入れ じっとしているだけでも汗の噴き出る暑さの中、わたしは大きなヤカンを持ちながら、調理室からテニスコートへの道のりを歩いていた。大した距離ではないものの、たっぷりと麦茶の詰まったヤカンを持ちながらでは、結構きつい。 目元から鼻へ、額から首筋へと伝い落ちる汗が、くすぐったくてうっとおしいけど、片手で持つのがはばかられるほど重いヤカンを持っていては、満足に拭うこともできやしない。 夏が暑いのは当たり前だけど、それでも、今年の暑さは桁外れだった。 だって、例年に勝る猛暑で、気温が40度を越えた地域もあるって言うんだもの。 40度なんて、人間が発熱したって、そう簡単には越せない温度よ。なのに、その人間を取り巻く空気が40度って! ありえない!! まあ、40度までいかなくても、全国的に平均気温が上がっているのは確かだった。 そのせいで、わたしたちは、日々危険にさらされている。 そう、熱中症という危険に。 聞くところによれば、熱中症は、屋内にいても要注意っていうじゃない? なら、炎天下にさらされながら屋外スポーツに勤しむテニス部の面々は、それ以上に危険といえた。 でも、こんな時こそ、マネージャーたるわたしの出番である。 暑さに負けたみんなが、熱中症や脱水症状を起こすことのないよう、こまめに水分補給を促さなきゃ。そんなわけで、無事テニスコートについたことだし、そろそろみんなを呼びますか。 「みんなー! そろそろ休憩よー!」 わたしの声に、全員の動きが止まる。それまで真剣に練習に臨んでいたみんなは、それで一気に、現実に押し戻されたようだった。そして疲労感を伴わせながら、コートの外に出て来る。 「もうそんな時間か。練習に夢中になってると、つい時のたつのを忘れるな」 ったく、気をつけて下さい、橘さん。テニスが好きなのはわかるけど、物には限度ってものがあるんです。 「ほんと、に声かけてもらわないと、休憩取るのも忘れちまうよ」 「まだ動けるけど、過信するのも怖いしな。なんたって、この暑さだ」 石田くんの言う通り、わたしが声をかけないと、集中しすぎたこの人たちは、休憩を挟むことさえ忘れてしまう。でも、桜井くんみたいに、きちんとこの暑さのことを考えてる人がいるから、まだ安心できるわ。 「ふー。風がなくても、日影に来るだけでホッとするぜ」 「うちのジャージって、黒いせいで余計に熱を吸収するもんなー」 その気持ち、よーくわかるわ、内村くん。だってわたしも、つい今し方、陽を遮るものが何もない校舎脇を通ってきたところだもの。長時間直射日光を受けた後なら、些細な日影でも、まさにオアシスでしょうね。でもマネージャーのわたしは、みんなと違って学校指定の体操服だから、森くんの言うつらさはそんなにわからない。いや、むしろわからなくて助かるのかも。 「でも、黒は紫外線を遮断するっていうから、日焼け対策にはいいらしいぞ。あっ、だから深司は色白なのかも」 「は? 何、頭悪いこと言ってんだよ。全員同じジャージ着てるのに、それで俺1人だけ白い理由にはならないだろ。っていうかさ、自分はいい感じで日焼けしてるからって、自慢したいわけ? 無闇に焼けたいとは思わないけど、みんなが焼けてる中で俺だけ色白だと、まるでサボってるみたいで気に入らないんだよなあ」 あーもー、神尾くんが思いつきで変なこと言うから、伊武くんがボヤき始めたじゃない。っていうか伊武くん、色が白いの気にしてたんだ。いいと思うんだけどなあ、肌キレイに見えて。いや、実際彼は、キレイな肌してるけどね。でもそんなこと言ったら、今度はわたしが標的にされるだろうから、絶対口にしないけど。 「ま、まあまあ伊武くん。日焼けには個人差があるんだから、別に焼けにくくたって大した問題じゃないよ。それに伊武くんが真面目に部活してるのは、みんなちゃんと知ってるんだし」 あまり長引くと、休憩中の空気が重くなるので、しょうがなくわたしが止めに入った。 別に困るのは神尾くん1人だし、あまり続けば最終的には橘さんが止めてくれるから、ほっといてもいいんだけどさ。でも、疲れてる橘さんの手をわずらわせるのもねえ。 そして集まってきたみんなの前で、事前に作っておいた麦茶を紙コップに注ぐ。 実はこれまで、休憩時には、各自水飲み場まで、水を飲みに行ってたんだけど、今日に至っては違うのです。なぜなら昨日、日々練習に励む我がテニス部に、用務員のおじさんたちが麦茶を差し入れしてくれたから! 本当にありがとう、おじさんたち! ただ、バッグのやつなので、わざわざ沸かさなきゃいけないのがめんどくさかったけどね。でも、せっかく受けた人の好意に、ケチをつけちゃいけないわ。 暑い中、わざわざヤカンで麦茶を沸かすのはしんどかったけど、テニス部のために気持ちを向けてくれる人がいることを思えば、全然苦にはならなかった。だって過去が過去だから、あまり人の寄りつかない部なんだもの。 だから、調理室の冷蔵庫を借りて麦茶を冷やし、それをみんなに出すことができるのは、わたしとしても嬉しかった。応援してくれる人たちの「頑張れ」って気持ちを、こうして伝えられるのが、すごくすごく嬉しかった。 何より、この暑さだもの。冷たいものを飲むだけでも、すっごく幸せを感じると思うのよね。 その証拠に、たかが麦茶を前に、今日のみんなはいつもよりにこにこしている。 「はい。さっきまで冷蔵庫の中だったから、冷たいよー」 「ありがとう、」 「やっぱ動いた後は、冷たいもんが一番だよなー」 「じゃあ、いっただっきまーす!」 炎天下で思いのまま動き回り、汗を流しまくったみんなは、冷たい麦茶を受け取るや、嬉々として口をつけた。 ――けど、その直後、 「ぶっ!!!!!」 ……わたしは今、ものすごい光景を目にしました。 男子テニス部一同が、口に入れるや否や、そろって麦茶を噴き出すという……。 ――って、思わぬ光景に、ついぽかんとなっちゃったけど、一体何事なの!? でもそれは、みんなの方こそ、わたしに聞きたいことらしかった。 「な、なんだこれ!?」 「何って、麦茶だけど……?」 まだ中身の残った紙コップをわたしに向かって突き出しながら、真っ先に訊ねたのは神尾くんだった。他の顔触れもそれにうなずいてるところを見ると、みんな感想は同じらしい。そして、わたしの答えに納得できなかったのも、さらに同じらしかった。 「確かに、麦茶は麦茶だけどさ、でも……なんていうか、これ……」 「純粋な麦茶じゃねーだろーが!」 言葉を選ぼうと必死な石田くんをよそに、神尾くんが怒りにまかせて文句を言う。 それにわたしも、ついムッとなり、 「じゃあ、不純な麦茶ってどんなのよ!」 「これだよ、これ! まさにこれ!!」 紙コップを鼻先に突きつけられ、自信満々言われてしまった。 ふ、不純な麦茶って……。 すごい剣幕で言われて、思わず絶句するわたしに、今度は橘さんが、優しく問いかけてきた。 「まあ、落ち着け、神尾。なあ、おまえ麦茶に何か入れたか?」 「あ、はい」 「……何を入れた?」 あ、何かみんなの目が怖い。 つい、さらっと答えちゃったけど、確かに普通は肯定するところじゃないもんね。 「えっと、あの、みんなが汗をかきすぎて、身体から塩分が失われるといけないと思ったから、塩を入れてみたんです」 「……塩か」 猛暑の中、毎日練習してるみんなが心配で、わたしはわたしなりに、暑さが身体に及ぼす影響のことをいろいろと調べてみた。 本来、汗というものは、身体から熱を奪い、体温が上昇しすぎるのを防いでくれるもの。でも失われた水分を補わないと脱水になり、かえって身体の調子が悪くなって、場合によっては危険な症状を引き起こすそうなの。これが熱中症。 だから、適宜水分を補わないといけないんだけど、同時に汗として排出されてしまったぶん足りなくなった塩分も、補う必要があるんだって。 「でも、塩味の麦茶じゃ飲みにくいと思ったから、塩味を薄めようと思って、砂糖も入れてみたんですけど」 「………………砂糖もか」 だって塩水は飲みにくいから、そこに糖分を混ぜて、おいしく飲みやすくするのがいいって、物の本に書いてあったんだもん。っていうか、そもそもそれがスポーツドリンクというものだし。 けれどわたしの話を聞くうちに、橘さんが頭を抱えてしまった。みんなも肩を落として、ため息をついている。 ひょっとして、わたし……分量間違えたとか? っていうか、思いっきり目分量だったし、その可能性はかなり高い。だって熱中症対策に最適な、0.2%程度の食塩と5%程度の糖分って、具体的にどれくらいなのよ。 あ、そもそも、麦茶でやったのがまずかったのかな? いや、一番まずかったのは、味見をしなかったことにあるような気も……。 独自のアレンジを施した麦茶は、決して悪意があってしたことじゃない。けど、そんなものを実際に飲まされる方はたまらなかったようで、その気持ちを如実に表す言葉を、神尾くんがポツリと呟いた。 「こんなもの飲まされちゃ、大事な全国大会前に身体壊すっての」 無理もない一言。でも、わかっていても、グサッときた。 全国大会を控えてると思ったから、わたしなりに頑張ったのに。 だから熱中症のこともきちんと調べて、できる範囲での対策を考えたのに。 テニス部は、過去の実績がないどころか、問題を抱えて生まれた部だから、部費なんて雀の涙。本当は夏の間だけでも、スポーツドリンクが買えたら一番いいんだけど、それすら無理な状態なんだ。 今回は、テニス部の頑張りを知っている用務員さんたちだからこそ、休憩時間に皆さんが作っているぶんの麦茶を分けてくれた。その好意の結晶である麦茶を作ることで、わたしもよりいっそう、みんなの手助けができたと思ったのに。大好きな仲間たちに、頑張れって気持ちを、もっともっと伝えられたと思ったのに。 本当は、こんな不満を抱えるのはお門違いだってわかってる。だってわたしが、せっかくの麦茶に大ざっぱに塩と砂糖を混ぜたのが、そもそもの原因なんだから。けど、こんなふうに言われると……やっぱり悲しい。 それ以降、誰も何も言わず、わたしも何も言わない。 そんな嫌な沈黙の中、ふいに橘さんが優しい顔で、わたしの頭をポンポンと叩いた。 「ありがとうな、。俺たちのために、いろいろ考えてやってくれたんだろ?」 「……考えりゃいいってもんでもなかったみたいです」 だって、言いにくそうなみんなの態度が、嫌というほどそれを物語っている。 「でも、きちんと状況を考えての行動じゃないか。水分補給だけでなく、塩分補給のことまで気にかけてくれたのは、そういうことだと思うぞ」 「でもどうせなら、麦茶飲みながら、塩舐めた方がよかった気がします」 「まあ、先に混ぜられるよりは、そっちの方がまだマシだよね」 「深司!」 石田くんたちが慌てて口を伊武くんの口を塞ぐけど、すでに聞こえてしまいました。 ますます、がっくりうなだれるわたし。 すると、わたしの頭に手を乗せたまま、いろいろ考えたらしい橘さんが、 「うーん……ようするに、にそういういらん苦労をさせたのは、結局のところ、部費不足のせいなんだよな」 まあ……もとをただせば、そういうことになりますが。 橘さんは、なおも何やら考え続け、 「この暑さだと、気をつけていても、熱中症の危険は常につきまとうし……なら、夏の間だけでも、できる範囲でなんとかするか。そうすれば、いざという時の水分・塩分補給も迅速にできるし、だって安心だろう」 鶴の一声って、こういうことを言うんだなあ。 その結果、橘さんの案で、みんなで100円ずつ出し合って、粉末ポカリを買うことになったのです。 うん、それがあれば、確かに安心だわ。 それに、みんなも嬉しそう。ポカリの粉を水に溶かすだけなんだし、楽しみも何もないと思うんだけど、麦茶に塩と砂糖を溶かされた今日のことを思えば、確かにちょっとは楽しみかな。 いや、今日の麦茶だって、本当はみんな楽しみにしてくれてたんだ。それをわたしが飲みにくくしちゃったばっかりに……。 結局、麦茶をあきらめて、いつも通り水飲み場に行くことになったみんなに、わたしは改めて、きちんと頭を下げたのでした。 それから用務員のおじさんたち、せっかくの差入れを無駄にしちゃってごめんなさい。後でわたしも味見したけど、やっぱりあれは、飲めたもんじゃありませんでした。 ■余談■ 「みんな、暑い中頑張ってるわねー」 「あっ、杏ちゃん! おはよう!」 近くまで来たついでに、男子テニス部の様子を見に行ったら、いつも元気な神尾くんが真っ先に出迎えてくれた。 「おはよう、神尾くん。……あれ? の姿が見当たらないけど、どうしたの?」 「ああ、なら今、調理室にいるよ」 「調理室?」 マネージャーのあの子が、調理室でするような用事って、何かあったっけ? 思わず首を傾げたら、石田くんがおしえてくれた。 「昨日、みんなで粉末ポカリを買ってさ。それで、調理室の冷蔵庫が借りれるみたいだから、今、向こうへ作りに行ってくれたところなんだ」 「……粉末ポカリ?」 その単語に、ちょっと引っかかるものを感じて眉をひそめる。 そうしたら、目敏いお兄ちゃんに声をかけられた。 「? どうしたんだ、杏。心配そうな顔して」 「えっと……ちょっと気になることがあって。でも、多分大丈夫だと思うよ」 「そういう言い方されると、かえって気になるんだけど」 んー、それは確かに、深司くんの言う通りかも。 「じゃあ、言うけど……。あのね、以前の家に遊びに行った時、あの子カルピス出してくれたのよ。でもそれが、とんでもない甘さだったのよね」 「ああ、カルピスの濃さって、その家のエンゲル係数を表すっていうよね」 深司くんの言葉に、みんながうんうんとうなずく。 けど、わたしが言いたいのはそういうことじゃない。 「じゃなくて、そもそも水との割合をどのくらいにしたらいいか、よくわからないみたいなの。だから何回やっても失敗するらしいのよね。……と、まあ、そういうことがあったから、もしかすると粉末ポカリもヤバいんじゃないかなーって」 それに昨日の、絶妙な味わいの麦茶を作って怒られたって話も聞いたしね。 そんな出来事の直後なだけに、今の話で、みんなの不安は一気に頂点に達したみたいで。 案の定、全員大慌てで、調理室にいるだろうのもとへ、駆けて行ったのでした。 −END−
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