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宍戸の前で、高らかに生理注意報を宣言した、その日の夜。 わたしのもとには予想通り、月に一度の、赤い便りがやって来た。 そんなわけで腹が重い。 腹が重いと気分も重い。 気分が重いと表情も暗い。 そして表情が暗いと、顔色も冴えないようで。 いろんな条件が積み重なって、誰の目から見ても明らかに、わたしは絶不調だった。 そんなだから、あまり機嫌もよくなかったんだけど。 でも、ある人物のある一言で、沈み込んでいたすべてのものが上昇したから、我ながら現金だと思う。 「今日は、家まで送ってくから。授業終わったら、教室で待ってろ」 何と、珍しく心配してくれた宍戸が、そんな嬉しいことを言ってくれたのです! 大好きな彼氏にそんなこと言われたら、絶不調なんて、たちまちどこかに飛んでっちゃうわ。 腹の重さは消えなかったけど、それでも気分はハッピーだし、顔色は良くなるし、知らず知らず笑顔にだってなっちゃうしで、すべては一気にプラスになった。 宍戸のクラスは、他に比べていつも終わるのが遅いけど、それでも待つことなんて、全然苦にならない。部活があった頃は、帰りが遅くなりすぎるからって、待たせてもくれなかったもの。 ……まあ、こっちも見たいテレビがあったりして、早く帰りたい時がほとんどだったから、実際、全然待ってないしね。 そんな、待ち慣れていないわたしが、待ってもいいって思うほどなんだから、ほんと宍戸効果ってすごいと思う。 一応、向こうから惚れられて始まったお付き合いだから、正直、わたしはある程度好きになっても、宍戸にのめり込むことはないと思っていた。 その結果は、ご覧の通り、見事に予想を覆したんだけどね。 でも、いいんだ。 だって、宍戸と過ごす時間は、わたしにとって、とても大切なものだから。 だから、少しでも長く、一緒にいたいの。 そんなわけで、わたしは今、健気に宍戸を待っています。 待っているのです。 待っているわけなのですが……。 「……ねえ、宍戸くん」 わたしの声が静かに響く。 いつものにぎやかな教室なら、ざわめきに紛れ込んでしまうだろうに、今に限っては、嫌というほどよく聞こえる声。 「な、なんだよ」 改まって、くん付けで呼ぶわたしに、不穏なものでも感じたのか、宍戸の声には強さがない。 いつものにぎやかな教室なら、かき消されること間違いなしの、張りのない声。 その様子から、彼が自分の立場を自覚していることは、よくわかる。 よくわかるけど、やっぱり言わずにいられなかった。 「わたしはいつまで、君を待ってればいいのかな?」 宍戸のクラスのHRが終わったら、2人で一緒に帰るだけ……のはずだったのに。 なのに、みんなが立ち去った静かな教室に、わたしと宍戸はまだ残っていた。 2人きりだけど、甘い雰囲気なんてカケラもない。 というか、この状況では、そんな雰囲気になりようもない。 まったく、もう……。 わたしは思わず、ため息をついた。 なんでこの人は、わたしと約束してる時に限って、居残りなんてさせられるのかな? 事の発端は、宍戸が本日が提出期限である英語の課題を、キレイさっぱり忘れていたことにある。 これが一度目の課題忘れなら、まだよかったと思う。 でも今回は、一度忘れて「明日には持って来るように」と恩赦を受けたものを、またまた忘れやがったから、同情の余地がないのよね。 英語の中田先生は、基本的にとても優しいけど、同じ失敗を見逃してくれるほど、甘い人じゃない。そして宍戸は、本日中の強制提出を命じられ、今必死でやっているわけなのです。 「あとちょっとで終わるから。だから、もう少し待ってろ」 「それ、さっきも聞いた」 辞書を繰りつつ、必死に英単語と戦う宍戸を見ながら、憮然と答えるわたし。 あーあ、本当なら、今頃はとっくに、家に着いてるはずなのに……。 それで宍戸にも上がってもらって、2人でゆっくりしたかったのにな。 でも、現実は未だ学校で、肝心の宍戸は、英文の日本語変換に大忙し。 ……なんだか、宍戸が優しいって、浮かれまくってたのがバカみたい。 わざと課題を忘れたわけじゃないのはわかってるけど、ささやかな喜びを踏みにじられて、さすがにさんはご立腹なのです。 いろんな意味で気分最悪なので、正直、わたしは一刻も早く帰りたかった。 別に歩けないわけじゃないから、このまま、1人ででも行きたいんだけどな。 そんな考えが、わたしの視線を、頻繁にドアに向けさせる。 でも、そうした動作から危険な気配を悟ったのか、宍戸は乱雑にシャーペンを走らせながらも、慌ててわたしの腕を掴んだ。 「待て! あと3行!」 いや、どう見ても、残り3行じゃ終わらないでしょ。 ……まあ、早く帰りたい気持ちはあるけど、せっかくここまで待ったんだし。 「先に行ったりしないから。それより、ちゃんとやらないと再提出になるよ」 「お、おう」 その一言に安心したのか、ようやくわたしの手を離す。 それ以降は雑談もなく、ただひたすら、シャーペンの走る音だけが辺りに響く。 うん、この調子なら、あと10分もかからないかも。 ……あ、手が止まった。で、ガシガシ頭をかきながら、ものすごーく考えてる。 ……やっぱり、10分は無理かもしれない。 うーん、わたしがやきもきしながら待つせいで、かえって宍戸は焦るのかも。 そう思ったから、気持ちを落ち着けるべく、友達からもらったまま持っていたアメを、口の中に放り込んだ。よし、爽やかなレモン味で、苛立つ心を静めよう。 すると、途端に止まるシャーペンの音。 見れば、宍戸が自分にもよこせと言うように、手を向けているのが目に入った。 「1人だけ、何いいもん食ってんだよ。俺にもよこせ」 「ふふーん、残念でしたー。これが最後の1個ですー」 「はあ? 1個しかねえなら、目の前で食うなよ」 言って、悔しそうに舌打ちする。 ふーんだ。もとはと言えば、居残りなんか、させられる方が悪いんですよーだ。 ちょっとした仕返しとばかりに、得意げな顔を見せるわたし。 でも、そんなわたしを見た宍戸は、なぜかおもむろにシャーペンを置いた。 そして、「いいこと思いついた」と、笑みを含んだ声で言う。 「いいこと?」 その言葉に気を取られたわたしは、のびてくる宍戸の腕に気づくのが遅れた。 後頭部に回ったその手が、唐突にわたしを引き寄せる。 そして、至近距離に迫る宍戸の顔に驚いた時には、もう互いの唇が触れていた。 突然のキスに戸惑ったのは、ほんのわずか。後は、ゆっくりと目を閉じる。 わたしの口の中に広がるレモンの香りは、宍戸にも今、伝わっているんだろうか。 そんなことを考えつつ、静かに宍戸に身をまかせていたけれど――でもふいに、思いもつかない感触を覚え、たまらずわたしは目を見開いた。 何これ何これ!? 咄嗟に身を引こうとしたものの、後頭部にある宍戸の手が、それを許してくれない。 その間にも、宍戸のそれは、わたしの口腔を撫で回していく。 今までわたしたちの間にあったのは、触れるだけのキス。 その先には、唇が触れるだけじゃすまない、もっと深いキスがあることを知ってはいたけど、まさか今日、ここで体験するなんて……! ええ、宍戸ってば、舌を入れてきやがりました。 ディープキスです。しかも、初めてです。初めてなんです。 突然な上、初めて受ける感触に、わたしは身体を強張らせた。 そんなわたしを宥めるように、宍戸はあいている方の手で、優しく頬を撫でてくる。 そして、縮こまったわたしの舌に、宍戸の舌が絡みつき―― 「……!!」 たまらずわたしは、宍戸を突き飛ばした。 ビックリしたビックリした! だから思わず、 「ぐっ……ゴホ、ゴホッ!!」 アメ、飲み込んじゃったじゃない! しかも、口に入れたばかりで、まだ相当大きいままのを! わたしの反撃に、たまらず手を離した宍戸は、しばらく何が起きたかわからなかったようだけど、わたしの苦しげな咳き込みに、ようやく状況を理解したらしかった。 そして慌てて、わたしの背中を撫でさする。 「わ、わりい……」 全くだ! そんな意志を表すべく、宍戸の頭を1発はたく。 「信じらんない! 生理中の彼女に、なんてことすんのよ!!」 「……生理関係ねえじゃん」 「うるさい!」 「つーか、アメ飲み込んじゃったのな……」 「! あんたまさか、アメの強奪が目的で、舌入れたの!?」 言っておくけど、宍戸が舌を絡めてくるから、こっちはつい、反射的に引っ込めたのよ。 その勢いで、飲み込んじゃったのよ! 「バカ! アホ!! 変態!!! あんたなんか知らない!!!! もう帰る!!!!!」 「ちょっ、待て待て待て! 俺が悪かった。悪かったから帰んな!」 その後は、半ば取っ組み合い。 帰る帰んなという応酬のもと、最終的には、宍戸に力づくで押さえ込まれて、動けなくなった。……まあ、要は「抱き締められてる」と、同義の状況なんだけど。 「……相手の口に舌入れるキスって、すげえ抵抗あったけど」 しばらく黙っていた宍戸が、ゆっくりと口を開いた。 「やってみたら、そうでもなかった」 わたしを抱き締めたまま、そんなことを言う。 「相手がだからかな……」 そして、わたしの顔をのぞき込み、 「はどうだった? やっぱ、気持ち悪いか?」 真顔で、そんなことを聞いてくる宍戸。 その真剣さに耐えられず、つい視線を逸らしてしまう。 「そ、それどころじゃなかったから……」 ようやくアメの脅威から逃れたわたしの本音は、ただそれだけ。 宍戸も、それには納得したようで……でも、あっさり引き下がるわけでもなくて。 「じゃあ、もう1回。が嫌なら、もうしねえから。だから……な?」 自分の口の中に、誰かの舌が押し入る感触は、決して心地好いものじゃない。 なのに全然、不快感はない。 それって、相手が宍戸だからなのかな? いつかは、気持ちよく感じるものなのかな? ……そんなこと、恥ずかしすぎて言えないけど。 でも、真っ赤になった顔で宍戸を見上げれば、それが言葉の代わりになる。 そして、あらためて、宍戸の唇がわたしに触れた。 終わり間近の課題だけど、このぶんじゃ、まだしばらく終わりそうにない。 −END−
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