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寂しくて、悲しくて―― ここまで大きくなるとは思ってなかった、重い感情を持て余して、わたしは押しつぶされそうだった。 苦しくて、つらくて―― 唯一思いついた、それを発散させる方法は、ただ泣くことだけ。 でも、どんなに泣いても、わたしの心に晴れ間は見えない。 そうして、泣いて泣いて泣きじゃくるわたしを、どうしたらいいかわからないというように、戸惑いながら優しく撫でる手があった。 泣くことに必死で、最初は気づかなかったけど、その大きくて暖かな感触は、ゆっくりとわたしに安らぎをもたらしてくれて。 そしてようやく、わたしは楽になれたんだ。 朝起きたら、目の前に、見知らぬ大きな腕があった。 わたしってば、腕枕で寝てたのかー……って、これは一体、誰の腕!? 目覚めた瞬間に飛び込んできた、衝撃的な光景に、わたしは慌てて飛び起きた。 その途端、鈍く重く痛む頭。 それが二日酔いによるものだとわかったのは、床に転がる、いくつものビールの空き缶が目に入ったから。 あらためて周囲に目をやると、全く見覚えのない部屋に、わたしはいた。 こ、これって、一体どういうこと? 緊張に早まる鼓動を抑えるため、何度か深呼吸を繰り返して、懸命に心を静める。 落ち着いて……落ち着いて、よーく考えよう。 昨日は、高校の卒業式だった。 そして式が終わった後は、無事に卒業できた喜びを表すべく、友人一同とひとしきり騒いで……。 ――と、ゆっくり記憶を手繰り寄せ始めたところで、「おはよう」と、聞き慣れない、低く艶っぽい声がした。昨日の出来事を思い出すことに集中していたわたしは、とても身近から聞こえた声に、思わず跳ね上がる。 その声の主は、先程まで、わたしを抱き寄せながら隣で寝ていた、見たこともない男の人。 いや……全然知らないわけでもなくて、記憶のどこかで、少し引っかかってるような……? でも、働き始めたばかりの脳で、その記憶を引っ張り出すのは至難の技。 だから、とりあえず彼の素姓は後回しにして、この状況に至った経緯について、再び頭を巡らせた。 これって、ドラマなんかでよくある展開よね。しこたま飲んで酔い潰れて、目が覚めたら、知らない男の人とベッドにいたっていうの。今のわたしって、まさにそれじゃない? とはいえ、一応服は、ちゃんと着ている。脱いだり脱がされたりってことは、なかった……はず。だから、一夜のアヤマチも起きてない………………はず。 うーん、やっぱりそれだけじゃ、何もなかった証拠にはならないかな? って、そんなおっかない事実の検証よりも、まず、何がどうなってこうなったのかを考えないと。 そうは思っても、やっぱり気になって、目の前にいる彼を、ついまじまじと見てしまう。 乱れた髪を大ざっぱに手櫛で整えながら、わたしの視線を受ける彼は、とてもかっこいい人だった。 寝起きのせいなのか、どこか気怠げな感じが、味になっていて。 そして彼は、手近に置いてあったメガネをかけると、そんなわたしを見て苦笑した。 「なんでここにいるか、全然わからんって顔しとるな」 「えーと……はい、そうです」 「どの辺からなら、覚えとる?」 「どの辺……?」 どの辺も何も、全体的によくわからないんですが。 そんな心境が、素直に顔に出たらしく、 「じゃあ、とりあえず、俺と会ったとこから話そうか?」 「お、お願いします」 「さん、昨夜、うちの近くの公園のベンチで、1人で飲んだくれてたんや」 「えっ!?」 「コンビニで、しこたまビール買い込んだみたいで……」 「ちょ、ちょっと待って! なんであなた、わたしの名前知ってるの!?」 関西弁で丸メガネでいい男。そんな特徴的な知り合い、わたしにはいない……はず。 何となく記憶の中で燻っているものはあるけど、彼が「知り合い」と断定できるほどの、はっきりしたものはない。 でも、そんな素直な疑問を口にしたら、たちまち彼の表情は曇ってしまった。 「もしかして、俺のこと、知らん……とか?」 その通りです。 でも、さらにそれを伝えると、彼はとても残念そうに、ガックリとうなだれた。 「さん、よくテニス部の試合、見に来とったやろ?」 「テニス部の試合……あ、うん。友達の彼が、テニス部だったから」 一番の親友であるは、中学時代から、テニス部の菊丸くんとつき合っていた。 だからわたしも、そんな彼女にくっついて、よく試合を見に行ったけど……。 でも、当時のことを思い返したら、なんだか無性に泣きたくなった。 いつも、お互いの近くにいて、笑顔で向かい合っていた、と菊丸。 フッと浮かんだ、その情景が引き金になって、少しずつ昨日の出来事が蘇る。 ……そうだ。それでわたしは、1人でヤケ酒してたんだっけ。 「俺、氷帝のテニス部やねん」 ――っと、いけない。まだ話の途中だった。 続く彼の言葉に、わたしは慌てて回想を打ち切る。 「試合のたびによく見かけたし、うちは青学とも対戦してたから、俺のことも顔ぐらいは知っとるかなーと思ってたんやけど……」 「氷帝のテニス部? あー……ごめん、あそこは跡部くんしか知らないや」 氷帝のテニス部が強いのは知ってるよ。でも、テニスに興味ない人間には、テニスの強さって、あまりインパクトのある情報じゃないのよね。だからあの跡部くんのように、派手な登場でもしてくれない限りは、他校の人は、なかなか記憶にはとどまらない。 でも、これで彼のことが、何となく引っかかってた理由がわかった。やっぱり、見たことがあったからなんだ。まあ、ユニフォームと普段着じゃ、受ける印象がだいぶ変わるから、わかんなくてもしょうがないよ、うん。 けど、忍足くんにとっては、そんなふうに軽くすませる問題じゃなかったみたい。 「ほんまに!? 俺は、さんの中での知名度を上げようと、頑張っとったのに……」 「ご、ごめん……?」 大げさに肩を落とす彼を見て、つい、何となく謝ってしまった。 でも、こっちは青学の応援に行ったんだから、基本的に、見てるのは青学陣営よね。 もともと氷帝に知り合いはいないし、あっちの方は、跡部くんくらいしか、ちゃんと見てなかった。彼はかっこいいし、あの登場セレモニーみたいな、読めない行動が面白かったから。 「じゃあ、今から覚えてや。俺の名前は、忍足侑士。よろしくな」 「あ、どうも……です」 つられて自己紹介したら、「もう知っとるて」と笑われてしまった。 これで、なんとなく空気が和んだので、その後は、軽い世間話などをちらほらと。 忍足くんは、大学進学を機に、2月半ばから1人暮らしを始めたそうだ。だから、この部屋には、まだあまり物がない。寝泊まりだけではできるようにと、真っ先にベッドは入れたらしいけど、まさかそれにお世話になるだなんて、思ってもみなかった。 「あの、ごめんね。迷惑かけて」 ほんと、話を聞けば聞くほど、いたたまれなくなる。 だって、わたしが酔い潰れてたことが、そもそもの発端だもの。 夜の公園で、1人で飲んだくれてたわたしが、あまりにもひどい状態だったから、偶然通りかかった忍足くんが、保護してくれたみたいだった。 その間の記憶は、まだ曖昧なままだけど、きっとむちゃくちゃ絡んだんだろうな。そんな気がしてならないよ。ううっ、早くこの場から消えてしまいたい……。 でも、床に空き缶を散らかしたまま、帰るわけには行かない。多分、これ全部、わたしが1人で飲んだはずだから。せめて退散する前に、これだけでも片づけなきゃね。 そう思って、何気なく立ち上がりかけた――んだけど、ふいに後ろから、忍足くんに引っ張られた。予想外の強い力に、わたしはそのまま、彼の方に倒れ込む。 「まだ帰さんで」 「え?」 そして、背後から抱きしめられて、そう言われる。 顔が見えないからよくわからないけど、それでも穏やかだった彼の雰囲気が、一変したことだけはわかった。 「……本当は、泥酔してる間に、ものにするつもりやってんけど」 「は?」 そんな忍足くんに、戸惑うわたし。 でも、当の忍足くん自身も、どこか戸惑いを隠せずにいる。 「傷心の時につけ込んで、なし崩しにってのは、さすがにどうかと思ってな」 「あ、の……?」 どうも勢いで動いちゃったらしく、抱きしめる腕の強さに反して、言葉の響きがどこか頼りない。 「好きな相手が弱ってる絶好のチャンスを、あえて見逃した俺って、結構紳士やと思うで」 「好きな相手って……」 「満足に接点のない、他校の子を知っとるんや。察してもらえんかなあ?」 まあ、その……これまでの彼の発言から、そんなような気はしていた。 でも、だからって、今いきなり、そんなこと言われても! さらに困惑したわたしに、忍足くんは、なんだかすまなそうに言った。……とても聞き捨てならないことを。 「今を逃したら、もう会える機会なさそうやから。……ごめんな。失恋してヘコんでる時に、こんなこと言って」 「はあっ!?」 思わず口に出た、この状況には不釣り合いなわたしの声に、さすがの忍足くんも、思わず目を見開く。そして、物問いたげなわたしの視線を受けて、しどろもどろに話し出した。 「だ、だって、ずっと泣いてたやん」 「な、泣いてたとも! でも、それがどうしたのよ!!」 照れ隠しに、思わず叫ぶ。 ええ、確かに泣いてたわ。それは覚えてる。だって、泣きたかったんだもの。でもそれは、断じて失恋なんかじゃないんだから! けど、それを聞くと、忍足くんはますますわからないという顔で、 「それじゃあ、一体、菊丸に何されたん?」 その質問に、わたしもますますわからなくなる。 「? なんで、ここで菊丸が出てくるのよ」 「それは……さんが言うてたから……」 「……何を?」 ……なんだか、嫌な予感がする。 だって、説明を聞こうにも、忍足くんがとても言いにくそうに、あちこちに視線をさまよわせているから。 けど、このままじゃラチがあかないと悟ったのか、腹をくくった彼は、ついに告げた。 とんでもなく衝撃的な、昨日の事実を。 「……菊丸のバカとか、大好きなのにとか、そんなようなことをずっと……」 「! うわーっ!!」 なんだそりゃー! ああ、でも昨日の気分なら、間違いなく、そんなことを言ってそう。 とはいえ、事情を知らない人が聞いたら、確かに誤解する発言だわ。 「違う! わたしと菊丸は、断じてそんなことにはならない!」 「……確証あれへん」 「だって菊丸は、むしろ敵だもん!」 「は?」 忍足くんには、さんざん迷惑かけちゃったし、やっぱりきちんと説明しなきゃいけないな。何より、そんな誤解をされるなんてとんでもない。 そしてわたしは、恥ずかしさを押し殺して、そもそもの原因となったことを、彼に告白したのだ。 「菊丸のバカに、大好きなをとられたから……」 昨日の、ヤケ酒に至った経緯。 親友のと菊丸が、高校卒業と同時に、結婚したことを。 最初にこの話を聞いた時は、全然本気にしなかった。だって、子供っぽさ満載のあの菊丸と、こんな若さで家庭を持つだなんて! そんなの絶対ありえない。 でも、今時珍しい大家族の中で育ったからこそ、菊丸は自分も早く、こうして家庭を広げていきたいと考えていたらしいんだ。 2人のつき合いは長かったから、そんな菊丸の考えもは知っていたし、これからもずっと一緒にいたいと考える中で、自然とそうした話も出て来るようになっていた。 最初は、「こういう未来が来るといいねー」という気楽なものだったけど、いつしか2人は、真剣に将来を見据えた話し合いを重ねるようになり、ちょうど大安だし、何より節目の日でもあるからと、ついに高校の卒業式の日に、入籍することを決めたのだ。 思えばは、せっせとバイトをして、貯蓄に励んでいた。そんな彼女に、「そこまでお金ためてどうするの?」と、よく聞いたものだけど、そのたびに彼女は、「結婚資金だよ」と、笑いながら答えてくれたんだ。 あれが冗談じゃなかったことを知ったのは、「には一番におしえるね」と、嬉しそうに結婚報告をされた、つい先週のこと。 あの子は自慢の、そして最愛の友達だ。 それはこの先も、ずっとずっと変わらない自信がある。 でも、結婚の話を聞かされた時は、なんていうか……が遠いところへ行ってしまう気がして、考えれば考えるほど寂しくなった。二度と会えないわけじゃないけど、二度と近寄れないような……そんな気がして。 そして昨日、最後に教室で、大々的に結婚宣言をした2人は、クラス中の喝采を浴びた。 でもそんな中、わたし1人が、何も言えずに固まっていた。 2人を祝いたい気持ちは、間違いなく、胸の内にある。けど、わたしの中に渦巻くのは、そんな喜ばしい気持ちばかりでもなくて……。 そうした悶々とした何かを抱えながら、わたしは前々からの約束だった、クラスのみんなとの卒業記念パーティーに参加した。 と菊丸は、両家に入籍報告に行くからと、顔だけ出してすぐに帰ったけど。 そしてパーティーは、当然ながら、新婚さんたちの話題でもちきりで。 そんな祝い一色の空気がいたたまれなくて、わたしは一次会が終わって、すぐにみんなの輪を抜け出した。 でも、増す一方の重い気持ちを抱えたまま、家に帰るのは気が進まなくて。 そして、この気持ちから逃れる方法として、真っ先に思いついた手段が、アルコールだったんだ。 これが、今回の一連の出来事ってわけ。 すべてを聞き終えた忍足くんは、長い長いため息をつくと、 「そういうことか……。泣きながらずっと、菊丸のことばっかり言うとるから、てっきりあいつに失恋したもんだと……」 「いやー、わたしも、まさかそこまで、菊丸に恨み言を言ってるとは……」 「あんな言い方じゃ、恨み言には聞こえへん」 わたしったら、泣きながらずっと、「菊丸のバカ……」とか小さく言い続けてたらしい。 た、確かに、恨み言にしては、ずいぶんかわいらしいわよね。でもそれは、泣きすぎたあまり胸がつかえて、言葉が出にくくなってたせいだと思うのよ。……まあ、そんなんじゃ、誤解を招くのもしょうがないけど。 「暗くなった人気のない公園で、好きな子が1人で飲んだくれてるのを見つけた時の衝撃といったら、なかったで。その上、よりにもよって、菊丸に惚れてるのかと思ったら、なんか腹立たしくてな。今なら付け入ることもできると思って、部屋に連れ込んでみたけど、泣きながら他の男の名前を呼ばれるのは、やっぱりきつかったな……」 そして忍足くんは、一旦離れて、わたしの向きを変えさせた。 正面から向き合う形になったことで、先程までは感じなかった、彼の強いまなざしが、わたしに注がれる。よそ見をする隙なんて与えない、決意を込めたキレイな瞳が、わたしを映した。 「ずっと好きやったんや。菊丸のことなんて、思い出す暇あれへんくらい、楽しい時間を約束するから、だから俺とつき合ってくれ」 わたしの両肩を、離さないよう力強く、それでいて大切なものを扱うように、柔らかく掴む大きな手。 泣いている間のことは、ほとんど記憶にないけど、そんな中でも、おぼろげに覚えている、優しい感触がある。あれは、忍足くんの手だったんだね。 優しく慰めてくれた、あの手のあの感触に、わたしはとても救われた。 彼のおかげで、わたしはようやく、抱えっぱなしだった重い気持ちを発散できたの。 保護したつもりが絡まれて。しかもそのまま、泣きながら他の男の名前を呼んで、寝ちゃうなんて……。こんな醜態をさらした上で、それでもまだわたしのことを好きだと言ってくれる人は、とてもとても貴重よね。 ただ1つ、気に入らないものがあるとすれば、それは今の言い方だけ。 だってあれじゃ、本当に菊丸にふられたみたいで、いただけないんだもの。 でもそれは、言った当人も気づいたらしくて、やはり少し、ビミョーな面持ちになっていた。 そんな忍足くんを見ていたら、だんだん彼の手のような、暖かな気持ちが湧いてきて。 試合会場で少し見ただけの、ほとんど知らない人――だけどそんな彼を、わたしは自然に、受け入れたいと思っていた。 でも、それを認める前に、1つだけ問題があって……。 「あの……今の返事は、出直してからでもいい?」 だって、服は昨日のままでよれよれだし、飲みすぎて頭はズキズキ、髪はボサボサ、涙の跡で頬はカピカピになっている。こういう状況で、そういう状態なのは、やっぱりどうかと思うのよ。 でも忍足くんは、そんなわたしに、優しく微笑んで、 「そのままでも、十分かわええよ?」 「うっ……あ、ありがとう……」 なんだか恥ずかしくて、手で顔を覆ったら、さらにそれを覆い隠すかのように、忍足くんに抱きしめられた。 ありがとう、忍足くん。 暗澹としたわたしの心を、優しい光で照らしてくれて。 これからは、酔いに任せてなんかじゃなく、はっきりと自分の意志で、あなたの手を取るよ。 そして、2人で歩いて行こう。 まずは、一番の友達に、忍足くんを紹介するね。 その後で、新たな一歩を踏み出した大好きな親友に、寂しさに負けて言えずにいた、「おめでとう」を伝えよう。 −END−
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