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「?」 道すがら、ふいにわたしを呼び止めたのは、とても懐かしい、大好きな声だった。 そして、きっと二度と聞くことはないと思っていた――そんな、切ない思い出でいっぱいの声。 ただでさえ人通りの少ない道で、まさか知り合いに会うなんて。 しかもそれが、よりにもよって彼だなんて。 「……日吉」 若と言いかけたのを堪えたからか、答えるまでに、変な間ができてしまった。 それに対して、一瞬彼の表情が動いた気がしたけど……でも、特に気にすることじゃない。 休みをただブラブラと過ごすわたしと違い、彼は相変わらず、テニスに邁進しているようだ。 ジャージにテニスバッグという何気ない姿と、少し湿り気を帯びた前髪が、つい先程まで、汗をかくほど動いていたことを物語っている。 でもそれが、わたしの口を重くさせていた。 テニスをする彼が好きだった。 でも同じだけ、テニスをする彼が嫌いだった。 「久しぶりだな」 「あー……うん」 「元気だったか?」 「………………」 こうして顔を合わせるのは、1年ぶりかな。 1年――長いのか短いのか、考えてみると、よくわからない長さの時間だ。 そんなことを思いながら、しばらく無言のまま、2人で歩く。 居心地の悪い沈黙。 でも、これを打破しようとは思わない。 そもそも、日吉が隣を歩く意味がわからないから。 だから、前しか見ないわたしに、横から視線が注がれているのがわかっても、それに反応するつもりもない。 結局、この状況に音を上げたのは、彼の方だった。 「何か話せよ」 ……何それ。 自主的に話すタイプじゃないのは知ってるけど、だからって、わざわざわたしに話させるのっておかしくない? わたしが無視しようとしてること、わからないわけじゃないんでしょ? そもそも話すことがないなら、なんで隣を歩くのよ。 「人の話が聞きたければ、まず自分から話せ」 「なんだよ、それ。……まあ、いいけど」 つっけんどんに答えるわたしに苦笑しつつ、日吉は近況報告のようなものを語り始めた。 氷帝の高等部に上がってからも、これまで通り、テニス部で頑張ってること。 2年生になった今は、中等部の頃とほぼ同じメンバーで、再び全国大会を目指していること。 ……相変わらず、とにかくテニスでいっぱいなこと。 そして一通り話し終えると、今度はわたしに話がふられる。 「で、おまえは? 今どうしてる?」 ……それを聞くんだ。 込み上げる何かを必死で飲み込み、わたしは言った。 「別に。何もないよ」 端的すぎる自分の言葉が、冷たく響いたことがわかる。 それに対して、彼が眉をひそめたことも。 「は? なんだよ、それ」 でも、しょうがないじゃん。本当なんだから。 あなたと別れてから、何もないんだ。 ――本当に何も。 中学時代、わたしは日吉が好きだった。大好きだった。 でも、外部の高校へ進むわたしは、これまでみたいに、同じ環境にいられない。 だから卒業式の日、思いきって告白したんだ。 必死で絞り出した想いに応えてもらえた時、わたしがどれだけ嬉しかったか、あなたは知っているのかな。 でも、その喜びは束の間のこと。 いざ始まったつき合いは、残念なことに、全然うまくいかなかった。 原因はすれ違い。 ううん、わたしたちの気持ちは、最初から交わってなかった気がする。 わたしは日吉を見てたけど、日吉が見てたのは、テニスだったから―― そう、日吉は部活に熱心すぎた。 いや、熱心なのは別にいいの。 ただ、そうしたものがあるからこそ、わたしにあまり興味を示してくれないことが際立って……つまりは、寂しかったんだ。 何より、わたしに無関心なことがツラかった。 連絡はいつもわたしからで、わたしが動かなければ、何も変化はない。 氷帝テニス部の練習量を知っているだけに、きっと疲れているだろう彼には、些細なわがままも言えなくて……そういうことを毎日考えるうちに、自分の気持ちが一方通行にしか思えなくなってきた。 自分から告白したんだから、互いの気持ちを秤にかけた時、わたしの方が重いのは当たり前。 でもね、それがわかってても、平気でいられるわけじゃないんだ。 わたしに対して興味がないなら、いっそ最初から、OKしないでほしかったよ。 結局、その状況に耐えきれなくなって、わたしの方から別れを口にした。 彼は一言、「わかった」と言って……それで、わずかな電話とメールしかしなかったわたしたちのつき合いは、終わりを遂げたんだ。 あの時の切なさが蘇り、強く唇を噛みしめる。 少しでも口を開けば、涙も一緒に出てきそう。 そして、俯いたまま口を開こうとしないわたしに、さすがに日吉も何かを感じたみたいだった。 「……俺と口をきくのも嫌か?」 涙が零れないよう、気をつけて、それでも強く首を横に振る。 そうじゃないよ。そうじゃない。 「どういうつもりで声かけたの?」 感情が溢れないように気をつけたけど、それでも声が震えてしまう。 ただ単に懐かしかったから? あんなこともあったなって、笑い合いたかったから? 10年20年たったなら、そう思うこともできたかもしれない。 でもね、たった1年じゃ、笑うことなんてできないんだよ。 過去の出来事として片づけるには、あなたの存在は大きすぎて、そしてとても色鮮やかで、眩しすぎる。 どこへ行っても何を見ても、日吉のことを思い出してやるせなくなる。 だから、何もしなかった。そして今も、何も言いたくなかった。 だってわたしは、日吉みたいに、何気ない会話なんてできない。 別れた後にも、普通に生活が続いていることを報告できるほど、わたしは身近に彼がいないこの状況を受け入れていないんだ。 そう、1年たった今でさえ。 だってわたしは、まだ日吉の――若のことが好きだから。 本当は、別れたくなんかなかったから。 「いっそ、見ないふりしてくれたらよかったのに」 だから、こんなに気軽に、声をかけてほしくなかった。 ずっと一緒にいたかった人だから、なおさらに。 「元気だったか?」という一言ですら、わたしには残酷すぎる。 「若と別れたのに……元気でいるわけないじゃない……!」 懸命にそれを訴えた時には、もう堪えきれずに泣いていた。 強く腕を引かれたのは、その直後。 彼と向き合わされ、俯く顔を、強引に持ち上げられる。 「……なんで泣いてんだよ」 あんたのせいよ! そう言いたかったけど、もう声にならない。 必死で彼から離れようともがくけど、強すぎる力に抗えない。 「」 昔みたいに呼ばないで。 今はもう、彼氏でも彼女でもなんでもないんだから。 「離して! 触んないで!」 「頼むから聞いてくれ、。面白半分で声かけたわけじゃないんだ。せっかくの機会を、逃したくなかったんだよ」 でも、暴れるわたしの耳に届いたのは、聞いたこともない真剣な声。 思わず見上げれば、彼は恐ろしく真剣な――そして焦りを帯びた表情で、こちらを見ていた。 思いがけないその様子に、抵抗の勢いは削がれてしまう。 そのままわけもなく、わたしたちは見つめ合った。 「せっかくの機会って何?」 そして素直な疑問を口にすると、日吉は言った。はっきりと。 「別れを撤回するためのだよ」 この一言で、何かが吹っ切れたらしい。 話すきっかけが掴めずに、「何か話せよ」なんて無遠慮に言い放ったあの彼が、そこからは怒濤の勢いだった。 「飽きられたんだと思ってた。何もしなかったからな、俺は」 「でも、女子とつき合うのは初めてで、どうしたらいいかわからなかったんだよ」 「そもそも自分の性格は、交流向きじゃないからな」 「だから、程良く放っておいてくれる、との距離感は心地好かったんだ。……まあ実際は、そうじゃなかったみたいだが」 「それに、おまえからの告白で、好かれているって自惚れもあったしな」 「結果的にはないがしろにしちまったが、だからって、の存在がどうでもいいってわけじゃない。どうでもいいヤツの告白なら、そもそも受け入れるわけが……どうした?」 ポカンと間抜け面で見上げるわたしに、日吉が怪訝な声を漏らす。 「……日吉がこんなにしゃべるの、初めて見た」 そう、こんなに饒舌な彼は見たことがない。 というか、そもそも長い会話をした記憶がない。 わたしたちは、確かにつき合っていたはずなのに……それって、かなり切ないね。 そのことは日吉も感じたらしく、どこか自嘲めいた表情を浮かべていた。 でも、それを見せたのは、ほんの一瞬のこと。 「大事なことは言わなきゃダメだって、さすがに気づいたからな」 言って彼は、優しく微笑みかけてくれた。 とても柔らかなその表情に、新たに気づく。 こんな顔もできる人だったんだね。 「俺が言うのもなんだが、俺たちは言葉が足りなかったと思う。俺はおまえが好きだ。だからが思ってること、今ここで、はっきり聞かせてくれ」 これは本当に、日吉若だろうか。 1年前に、恋い焦がれつつも失望してしまった、あの人なんだろうか。 わたしには何の変化ももたらさなかった1年という時間は、彼にここまで言わせるほどの、すごい威力を与えていた。 はっきり聞かせろと強気に言いつつも、その目にはどこか不安の色がある。 馬鹿だね。 わたしの言いたいことなんて、もうとっくに決まってるのに。 でも今度は、さっきまでとは違うものが込み上げてきて、言葉にならない。 だからわたしは、この想いを伝えるべく、全力で彼の胸に飛び込んだ。 −END−
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