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卒業式も佳境にさしかかる頃には、涙腺を緩めるいくつもの仕掛けが、次第に威力を見せ始める。現に今、会場のあちこちで、堪えきれない小さな嗚咽が漏れ始めていた。 実は俺の隣でも、さっきから1人の女子が口許を押さえて深く顔を俯かせている。 悪友と言ってもいいそいつ――の、普段の言動をよく知っているだけに、さすがに俺もちょっと驚いた。 簡単に泣くような奴じゃないけども、やっぱ卒業式ってのは、特別なもんなんだろうな。 まるで普通の女の子のような、思わぬ一面を目の当たりにして、不覚にもちょっとドキドキしちまう俺。 んー……こういう時は、なんて言ったらいいんだろう。 それとも、そっとしておくべきか? とにかく俺は、のことが気になって気になって……。 …………………………気になって、ずっと見てたから気がついたんだけど、なんでこいつの肩、こんなに震えてるんだ? どうも、泣いてるわけじゃなさそうなんだが……でも、何か様子がおかしいぞ。 「おい、大丈夫か?」 ひょっとして気分でも悪いのかと思い、小声でそっと話しかけてみる。 だがは、これでもかと口を押さえたまま顔を俯かせ、必死で首を横に振る。 ……必死で? 「なあ、マジでどうしたんだよ?」 そう訊ねてから、若干の間。 それからようやく、少しだけ顔を上げて、は俺の方を見た。 そして小さな声を漏らす。 「どうしよう、向日……。わたしってば、マジでヤバイかも……」 「は!? まさか、ヤバイくらい気分悪いのか?」 「ち、違う……。ふ……」 一瞬、泣き出したのかと思った。 でも、ちょっと慌てた矢先に耳に届いたのは、押し殺した笑い声。 「ふ、ふふふ……ど、どういうわけだか、この状況に、めちゃくちゃ笑いが込み上げるの。くくっ……」 ――はあっ!? どういうことかと顔を覗き込んでみれば、笑いを堪える、必死の形相。 ……あのさあ、真剣な場面や静かな状況ってだけで、わけもなく笑える時ってのは、確かにあるよ。何がおかしいかはわかんねえけど、とにかくその時は、やたら笑えて仕方ねえんだ。だから、気持ちはわからんでもない。 でもなあ――だからって、いくらなんでも、卒業式でそれはまずいだろ!? 「そりゃわたしだって、笑っていい状況とダメな状況の区別くらいつくよ。でも、笑っちゃいけないと 思うと余計に笑えて……ふぐっ」 餅を喉に詰まらせたじーさんみたいな声を出し、必死で笑いを呑み込む卒業生。 ごめんな、送辞を読んでくれてる在校生。 ここにいるのは、お前が送る言葉を述べるに値しない奴なんだ。 ……まあ、俺もちゃんと聞いてるわけじゃねえけど。 「見て見て、向日」 送辞中にも関わらず、そう言って教師席を指差す。 その指の示す先にいたのは、普段ガミガミと口うるさい、生活指導のカタブツ教師。 でも今は、これでもかと唇を噛み締め、必死で涙を堪えている。 「ほらほら、顎のとこ、梅干しになってる」 「うわー、あれはマジすげえや」 「しかも、『俺は今、モーレツに感動している!』ってあの顔が、たまんなくない?」 た、確かに、すげえ顔してやがる……。 ――プッ。 じゃなくて! 俺が小さく吹き出したせいで、隣のこいつは、さらに笑いを募らせてしまった。 騒いじゃまずいって意識は、一応あるんだろう。 音を立てないよう、器用にじたばたもがいている。 「頼むから堪えてくれよ、おい」 「ど、どうしよう。もしここで答辞を読む跡部が、壇上に上がる時につまずきでもしたら、わたし本当に耐えられない。っていうか、想像するだけでもうっ……」 「想像すんなっ、ほんと頼むから!」 気がつけば、いつの間にやら送辞は終わり、答辞に移り変わろうとしていた。 答辞を読むのは、我らが跡部。 名前を呼ばれると毅然と返事をし、こちらの無駄な心配をよそに、無事壇上に上がり終える。 だが、杞憂に終わったそばから、こいつはまた妙なことを考え始めた。 「ねえねえ、跡部が答辞を読み終えて、席に戻る時の合図にさ、もし太郎ちゃんが、『行ってよし!』とかやっちゃったら、面白くない?」 「いや、それぜってーありえねえから。だからもう、変な想像すんなって!」 熱が入りすぎ、思わず声が大きくなるが、周囲の奴らに怪訝そうに振り向かれ、さすがに俺も口を閉ざした。 だが、そうしたことさえ笑いの種になるこいつは、やっぱりひたすら苦しそうだった。 あの氷帝名物を、自分で「ビシッ!」と効果音をつけながら真似して、勝手に笑いのツボにハマってるの動きを、とにかく抑える。 だってよ、さっき跡部が、こっち見て睨んだんだよ。 ここだけ、妙にざわついてるからな。っていうか、ざわついてんのは、主にこいつ1人だが。 下手に「笑うな」と言えば、余計に笑うだろうから、とにかく動きだけを止めさせる。 ああもう、ビシビシうるせえ。頼むから黙れ。跡部から恐怖オーラが漂ってんのが、わかんねーのか! そんな、俺の全身全霊を込めた心意気を感じ取ったか、さすがのこいつも、ようやく静かになってくれた。 口元に浮かぶ、消えない笑いが気になるが、静かにしてくれるなら、それでかまわねえ。 だがしかし! なんで物事というものは、望む時に限って、うまく運んでくれないんだろう。 それは、滞りなく進んでいた跡部の答辞が、クライマックスにさしかかった時だった。 つまり、一番の見せ所。 「ぶっ!!」 「!! ゴ、ゴホゴホゴホゴホゴホッ!」 バッキャロー! いきなり吹き出すんじゃねー! 咄嗟に俺の咳払いでごまかしたけど、さすがに今のは、めちゃくちゃ注目されてたぞ。 っていうか、なんで俺がこんなに必死になってんだ? こいつが勝手に笑ってるだけなのに、気がつけば俺、何気に同類っぽくなってるじゃねえか。 だが、俺の胸の内など知るよしもないこの女は、激しい笑いを押し殺し、ショックで死んじまうんじゃないかと思うほど、椅子の上でのたうっていた。 「む、むか、むかひ……ひひひひひ」 「言いたいことはわかる。でも、何も言うな」 「だ、だって、だって今、跡部が噛んだ。『賜る』を『たままる』って言ったよう」 ほんとに、なんてことだろう。 確かに予想外の出来事だった。 だって、あの跡部が卒業式という大舞台で、セリフを噛むというミスを犯すなんて、誰が思う? 普段の俺なら、後で楽しく揚げ足取ろうって思うところだが、何事もなかったかのように朗々と読み進める跡部から、殺人的なオーラがビシバシ出てる以上、とてもじゃないが、そんなふうには思えない。 っていうか、こいつが本格的に笑い出したら、俺まで危ない。 一旦関わった以上、問答無用で連帯責任だ。 隣では、やっぱり必死に笑いを堪える、空気の読めない女が1人。 なあ、ほんと頼むから、なんとか堪えてくれよ。おまえだって、無事に卒業したいだろ? もし次に笑い出したら、その時は……そうだな、口封じがてらキスでもしちまうか? そんなベタなことを思ったら、なぜか無性に笑いが込み上げてきた。 だってさ、なんだかんだ言いつつも、俺ってば、結局こいつのことが好きみたいだし。 好きだからこそ、ほっとけないし、関わっちまうわけだろ。 そして気がつくと、ニヤニヤ笑いの俺を、怪訝そうに眺めるあいつ。 ちっ、もう笑ってねえのか。……でも、隣でいきなり笑われたら気味悪いって、これでようやくわかったろ? の気が逸れた間に、跡部の答辞は、無事終了した。 拷問とも思えた厳粛な卒業式も、これでなんとか終わりそうだ。 ……けど、このぶんだと、高等部の入学式でも危ないな、こいつ。 −END−
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