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部活が終わって帰宅して、ホッと一息ついた時。 本来なら心安らぐ瞬間なのに、わたしの安らぎは、あることを思い出して中断された。 同時に、制服を脱ぎかけた状態で、動きも止まる。 今わたしは、着替えて宿題してご飯食べてお風呂に入って――就寝に至るまでの流れを、時間配分を計算しつつ考えていた。 でも、「宿題して」という部分で、なぜか引っかかるものがあって。 今日の宿題は英訳問題。そのため、英和辞典は必須アイテム。 でも、その肝心の英和辞典……ちゃんと持って帰ってきたっけ? 今日は細々した荷物が多かったから、部活が終わった後、部室で荷物の整理をしたんだ。 確かあの時、近くの棚に辞書を含めた中身を置いて。 置いて………………置いたまま、カバンに入れた記憶がない。 よりにもよって、一番大事なそれだけを。 勘違いであってほしい。 そう願ったけど、確認の結果、やはりわたしは、英和辞典を部室に置き忘れて帰っていた。 ああもうっ! こうなったのも、真田が「帰り際になって、慌てて荷物を整えるな! 常にきちんと整頓しておけ!」なんて、うるさくしつこく言うからだ! 荷物を出し入れしているそばで、あんなふうに言われたら、慌てて手元が狂うっての! でも、真田のせいにしたところで、部室に英和辞典を忘れた事実は変わらない。 辞書がないということは宿題ができないわけで、宿題ができないということは宿題忘れのペナルティとして、さらなる宿題が課されることになる。 そもそも、そうなるのが嫌だから、きちんとやろうとしてたのよ。 わたしは時計を確認した。 外は暗くなりかけているけど、今から行って帰ってこれば、さほど遅い時間にはならないはず。 くつろごうとしていた矢先で、ちょっと億劫だけど、嫌いな宿題が増えるよりはずっといい。 わたしは脱ぎかけていた制服を着直すと、大急ぎで学校へ戻って行った。 陽はすでに沈み、日中はにぎやかな学校も、今では静寂に包まれている。 明々と灯る外灯のおかげで、移動には困らないけど、さすがにこの時間、生徒の姿は見かけない。 夜の静かな学校……外灯がいい仕事をしているおかげで、さほど怖さは感じないけど、だからといってあまり長居はしたくない。 なので、やることをやって、さっさと帰ろう。 わたしは足早に部室へ向かう。 けれど、目的地を目にした時、思わず足が止まってしまった。 なぜならテニス部の部室にだけ、未だに明かりがついていたから。 「え、なんで?」 少しくらいなら、部室でダラダラすることもある仲間たちだけど、さすがにこんな時間まで残っていることはありえない。 なぜならうちには、規律の鬼である、おっかない副部長がいるからだ。 用事もない上、暗くなっても帰らずにいるなんてこと、彼の前でできるわけがない。 ということは……何か異常事態とか? そう思った瞬間、冷たいものが背筋を伝う。 テニス部の異変として、真っ先に思いつくこと――それは療養のために、学校を休んでいる幸村のことだ。 でも幸村に何かあれば、さすがに連絡がくるはず。 なら、こんな時間まで、部室に明かりがついてるのはなぜだろう? 誰が何のために、部室にいるんだろう? わたしはそれを探るため、緊張しつつも、部室との距離を縮めていった。 そっと様子を窺ってみる。 でも、中はとても静かなもの。 さざめいた、人の気配らしきものは感じられない。 ならこれは、単に電気の消し忘れ? 可能性としてはなくもないけど、その確率はかなり低い。 だって、うっかりそんなことをやらかせば、「注意を怠るなど、たるんどる証拠だ!」ってうるさく言う人がいるから。 だからますます、明かりの理由がわからない。 わからないって、気持ち悪いな。 でも、中に入らなければ、わたしの目的は果たせないわけで。 しょうがないから、控えめにノックをしつつ、一応「失礼しまーす」と声をかけて中に入ってみた。 するとそこには、何ともいえない光景が―― 部室は電気の消し忘れじゃなく、ちゃんと中に人がいた。 そう、我らが副部長、真田弦一郎が。 彼が床に座り込んで、無作法にも足を投げ出し、身体を壁に預けた状態で、どっしりと鎮座していた。 何と、鬼のようなあの真田が! いるだけで変な緊張感をまき散らす、あの真田が! 信じられないほど穏やかな気配を放って――うたた寝して、そこにいたのだ! まあ、真田も人間だし、うたた寝くらいするだろうけど……。 でもいつもの彼なら、人が近づけばその気配で起きるはず。っていうか、うたた寝自体をしないはず。 いや、日が暮れたことに気づかないくらいグッスリ眠っているなら、すでにうたた寝の域を超えている。 これは、よっぽど疲れてるんだな……。 何しろ今の真田は、幸村のぶんまで頑張ってるんだもの。 そう思った時、なんとも言えない複雑な気持ちが、胸の中に広がっていった。 思いもよらぬ形で、部長の幸村がいなくなった時、テニス部全体が激しく動揺した。 幸村がいるのは当たり前のことだったし、何より彼の存在は、あまりに大きすぎたから。 そんな、弱気になったわたしたちに活を入れたのが、真田だった。 立海テニス部が成し遂げるべきは、全国三連覇。 幸村もわたしたちも、そのために日々頑張ってきたんだ。 なら、常勝を貫くために続けてきたこれまでの鍛錬を、ここでやめるわけにはいかない。 幸村の努力は、わたしたちと同じものではなくなるけど、目指す先にあるのは同じものなんだから。 現実を受け入れるのに必要な時間は、個人で大きく違ったし、精神面がぐらついたことで不調をきたした部員もいた。 けど、わたしたちが動揺しても仕方ないんだ。 幸村が彼にしかできない戦いを始めたように、わたしたちもわたしたちにしかできないことをすればいい。 それはすなわち、これまで通り頑張ること。 これまで通りに練習して、その力を試合で発揮して、勝ち進んでいけばいい。 彼が戻ってきた時に、思う存分戦えるように。 でも、「いつも通り」という簡単そうなことが、思った以上に難しくて、わたしは動きが鈍ってしまった仲間たちに、励ましたり発破をかけたり、とにかく「いつも通り」ができるよう、懸命に努めた。 その甲斐あってか、次第に幸村離脱の精神的負担は緩和され始めたけど、それはあくまで一般部員の話。 部長代行の形になった真田には、また違う負担があったはずなんだ。 幸村の抜けた穴を埋める、それは思った以上の大仕事だったから。 このたびの幸村ショックを見れば、彼の存在感がどれほどのものだったか、嫌というほどよくわかる。 身近にいたぶん、きっと真田も大きなダメージを受けただろう。 見た感じじゃわからなかったけど、疲れて部室で寝てしまうくらいなら、そういうことなんだろうな。 このまま寝させてあげたいけど、こんなに疲れているなら、家に帰って、じっくりゆっくり休んだ方がいい気がする。 真田には無敵のイメージがあるけど、同じく無敵だと思っていた幸村が、あんなことになったんだ。無理せず、きちんと休息をとってほしい。 そう思って、わたしは彼を揺り起こそうと手をのばした。 その時、ふと目に入った真田の寝顔。 力強い瞳は今は閉じられ、そのまぶたには、サラサラの前髪がかかっている。 まるで、真田の性質を表すかのようなまっすぐさ。 なぜだか、すごくそそられた。 ちょっとだけでいいから触れてみたい。 普通にお願いしたところで、断られるのは目に見えている。 それなら、意識のない今のうちに、好きにやらせてもらっちゃうか。 でも、相手に意識がないのをいいことに好き勝手しちゃうのって、なんだか背徳の香りが……。 いや、別に髪の毛に触るだけで、そんな大げさなことじゃないんだけどね。 それに、こんなにグッスリ寝てるんだし、そっと触ればわからないだろう。 わたしは軽く深呼吸すると、あらためて、真田に向かって手をのばした。 でも、日頃から鍛えてる人間って、やっぱり感覚も鍛えられてるのね。 前髪に触れるか触れないかという、微妙なところに来たと同時に、突然真田の目が、カッと見開かれた。 「えっ!?」 その気迫溢れる目覚めに驚いてると、突如強い力を受けて、世界が反転した。 背中に受ける衝撃。 一瞬にして変わる景色。 そして目の前には、険しい顔でわたしを見下ろす真田が。 なんでこうなったのか意味がわからなくて、慌てて起き上がろうとする。 でも、強い力に押さえつけられて、動くことは叶わなかった。 なぜならわたしの腕は、真田によって、しっかり固定されていて……って、この体勢って、もしかして―― ――わたし、真田に押し倒されてる? え? ちょっと待って。 なんでわたしは、電光石火の勢いで覚醒した真田に、腕を取られて押し倒されてるの? でもそれに驚いているのは、真田も同じようだった。 そして怖いくらいだった彼の顔は、わたしを見下ろしながら、次第に緩やかなものに……というより、わけがわからないという、不思議顔になりつつある。 あ、その顔、ちょっとかわいいかも。 緊張感を伴いつつも、しばし呆然とする両者。 そんな中、先に気を取り直したのは、真田だった。 「……? 一体、何をしているんだ?」 いやいやいや、その質問おかしいでしょ。 「この場合、それを問うのは、わたしの方だと思うんだけど」 だって、いきなり押し倒されたんだから。 気を取り直したように見えた真田だけど、実はそうでもなかったみたい。 言われたこととこの状況が、なかなか噛み合わなかったらしく、今も一生懸命考えているのが窺い知れる。 そこからさらに間を置いて、ようやく自分が何をしているかに気づいたようだった。 「す、すまん! 額に何かが触れた気がして、つい払いのけようと……!」 そして大慌てで、組み敷かれたわたしに謝罪する。 でも謝りながら、忌々しそうに首を横に振っていて。 もしかして、髪に触られるのが嫌だった? もしそうなら、反射的に動いた彼を責められない。 「ごめんね。髪の毛サラサラだったから、触ると気持ちよさそうだなーって思って、つい出来心で」 申しわけなくて、素直に謝る。 でも真田は、別に謝罪が欲しかったわけじゃないみたい。 相変わらずわたしを見下ろしながら、えらく苦い顔をしていた。 「どうかしたの?」 「いや、前髪を上げられる気配にだけ、こうも敏感になるとは思わなくてな」 言われてみれば、確かにおかしい。 わたしが室内に入ったことにも気づかなかったのに、なんで今だけ。 視線で、「どういうこと?」と訊ねてみると、 「先日、仁王に……いや、なんでもない」 「そこまで言ったなら、ちゃんと言ってよ。気になるじゃん!」 そして熱く訴えた結果、なんとか、渋る真田の口を割らせることに成功した。 どうやらこの前、うっかり油断して、仁王に「肉」と落書きされてしまったらしい。 額に。でかでかと。 それを聞いて、思わず吹き出したら、さすがに睨みつけられた。 でも、真田のおでこに肉って! すごすぎるよ、仁王! まあ仁王なら、気配を消して接近することも可能だろうね。 だからって、落書きされても起きないなんて、よっぽどだけど。 ――って、ちょっと待って。 「じゃあ、うたた寝してたのは、今日だけじゃないってこと?」 「む……」 わたしの指摘に、余計なことを言ったとばかりに、口を噤む真田。 「そういうことだよね」と促すも、そのまま口を開こうとしない。 それはつまり、弱さを見せたくないという、気持ちの表れ。 「……真田、そんなに疲れてるの?」 言ってから、愚問だと気づいた。 こんなところで、あれだけぐっすり眠っていたんだ。疲れていないわけがない。 負担があるとは思ってたけど、バリバリ動くし顔にも出ないしで、正直、ここまで疲労を蓄積してるとは思わなかった。 わたしはあまり、彼の負担をカバーできてなかったのか……。 わたしの顔が曇り始めたことで、真田は少し焦ったらしい。 本当は言いたくないだろうに、少しだけ本音を口にした。 「まあ……情けない話だが、心労は否めないな」 「そっか。幸村が入院して、ずいぶんたつもんね」 「いや、それだけではないんだが……」 ん? 真田にしては、歯切れが悪いな。 何か言いたそうな言いにくそうな、そんな感じで、もごもごしている。 っていうか、そろそろこの体勢から、解放してほしいんだけど。 結構しゃべってたけど、その間もずっと腕を取られて、のしかかられてるんだよね。 それを訴えると、真田は「すまん」と言いながら、腕を抑える手をわずかに緩め――けれどまた、すぐに力を込め直す。 わたしはやはり、彼に拘束されたまま。 「真田?」 今度はどれだけ促しても、彼の腕は離れない。 見上げれば、怖いくらいに真剣な顔の真田がいる。 そして、わたしをまっすぐに見つめながら言った。 「幸村の不在は、自分でも思った以上にこたえたらしい。だが、正直期待していなかったに、ずいぶん助けられた」 「……それ、褒めてるようで褒めてないよね」 あらためてお礼を言われると、嬉しいようなむず痒いような……でも期待してなかったとか、本音を出しすぎだよ。 ふくれるわたしを見て、困ったように真田は笑い、 「本当に感謝している。ずっと近くにいながら、今になって、こんなにを意識するとは思わなかった」 こちらこそ、頬を染めつつ、そんなことを言われるとは思ってもみなかった。 予想外の反応に、わたしはただただ困惑する。 もしかして……「意識する」って、そういうこと? わたしの手首を押さえつけていた彼の手が、天を向いている手のひらを、ゆるゆると撫でる。 そのまま指を絡め取って、わたしの手は真田によって、緩やかに縫いつけられた。 「すまんが、非常に離れがたい。いや……離したくない」 ……だから、本音を出しすぎだよ。 わたしを捕らえる彼の手は優しくて、きっと、逃げたいと願えば逃がしてくれる。 でもこの状況で、真田から目を逸らさず逃げ出さずにいるわたしは、すでに彼と同じように、離れたくないと感じていた。 −END−
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