郵便屋さんが届けてくれた、1枚のハガキ。
 それは大好きなあの人から、わたしへ向けてのメッセージ。



残暑お見舞い申し上げます



 以前は1日に何度もポストを覗きに行って、家の前をバイクが通るたび、もしや郵便配達の人かと、敏感に反応してたものだけど。
 でも最近は、電話でのやりとりが増えてきて、少しずつ手紙の頻度は減っていった。

 わたしと佐伯さんの絆を紡いだ、文通という形が失われつつあるのは、少し寂しい気もする。
 けど、声が聞きたい時に即対応できる、電話でのやりとりが増えたことは、わたしたちの親密さが増した証でもあると思うんだ。
 そもそも初めて会った時、電話番号を聞かれたことに、わたしは抵抗したんだから。
 それが今や、電話が普通になろうとしているんだから、本当に未来はわからないものよね。

 そんなことを思いつつ、久々に届けられた佐伯さんからのハガキを見る。



 残暑お見舞い申し上げます。

 毎日暑いけど、元気にしてる?
 こっちはいつものごとく、楽しく海で遊んでるけど(受験生にも息抜きは必要だからね)、
半端じゃない暑さのせいか、人が多すぎて、ちょっとげんなり気味。
 今年は合宿で千葉に来てくれたけど、来年の夏もぜひ来てほしいです。
 その時は、一緒に海で遊ぼう。

                                        佐伯虎次郎




 ごく普通に書かれた1年先の約束。
 それを見た時、思わず胸が高鳴った。

 大好きな人の未来予想図に、わたしがいる。
 たった数行の文章が、とてつもない幸福感を与えてくれた。

 ああ、わたしやっぱり、これからも文通を続けていきたいな。
 だって彼の文字で、彼の選んだハガキや便箋で、その時々の思いが寄せられるんだもの。
 電話は電話でいいけれど、この暖かで優しい繋がりは、これからも守っていきたい。


 でも、そんな決意を固める傍ら、少々気になることもあった。

 実は、最後に書かれた名前の隣に、えらく目を引く存在があって。
 それは、佐伯さん手描きのトラの絵。
 ぶさかわいいと形容できる謎のトラが笑顔で描かれていて、さらにその下には、「とらじろう」との名前がある。

 それを見た時、思わずため息がこぼれ出た。


「……佐伯さんって、結構根に持つタイプだよね」


 とはいえ、もとを正せば、わたしが悪いんだけど。
 でも、決して悪気があったわけじゃないんだ。

 この絵が示すもの――それはつい先日の、電話でのやりとりにあった。



◇   ◆   ◇   ◆   ◇



 全国大会が終わり、わたしと佐伯さんは、また頻繁には会えない距離に戻っていった。
 でもこの夏は、合同合宿のお手伝いやら応援やらで、意外と会えた方じゃないかな。

 ただ、不満はないとはいえ、満足しているわけでもない。
 だって、せっかく夏休みなのに、2人で過ごす時間が、これで終わりだなんて。
 そう思ったら寂しくて、佐伯さんの姿を思い描くうちに、頭から消えなくなって……そして、無性に声が聞きたくなってしまった。


「あの、と申しますが」
「もっと普通でいいんだよ、ちゃん。出るのは俺なんだから」


 佐伯さんに電話する時は、いつも緊張する。
 変に畏まるわたしを、佐伯さんは笑うけど、こればっかりはしょうがない。

 わたしは携帯電話を持ってないし、友人たちもそういう子がほとんどだから、かけるとしたら、それぞれの家の固定電話になるのね。
 その際、即座に本人が出てくれるとすごく助かるけど、でもそれが当たり前だと言われると、少し戸惑ってしまう。何しろ、一番慣れている最初のやりとりは、相手の家族との応対だから。

 でも堅いのは、あくまで最初だけ。
 そこを過ぎれば、いつも通りになって、あらためてわたしたちの時間が始まる。


「そういえば、今日の部活は大変だったよ」
「どうして?」
「剣太郎が号泣しちゃって」


 佐伯さんたち3年生は、今日正式に部活を引退したらしい。
 まあ、引退したとはいえ、これからもちょくちょく顔は出すんだろうけど、それでもきちんとした区切りは必要だものね。
 そこで3年生が1人ずつ挨拶をして、1年生部長にこれまでの感謝を述べていったら、最終的に彼の涙腺は決壊してしまったみたい。


「まあ、こっちはそれを狙ってたんだけど。剣太郎は期待を裏切らなかったよ」
「後輩を泣かすなんて、ひどい先輩だなあ」


 でも、涙が止まらなくなった葵くんを、きっと佐伯さんたちは、一生懸命なだめたんだろうな。
 それで、優しいみんなを前に、彼の涙はまた溢れ出して。
 容易に想像がつく状況に、こちらも思わず笑顔になる。


「バネのヤツは、最後だからビシッと決めたかったみたいだけど、ダビデがチャチャ入れたせいで、やっぱり相変わらずだった」


 ……こっちも容易に想像がつくな。

 でもそこからは、もう1つ、違う様子も窺えた。


「それ、ヒカルくんも泣きそうだったのかもしれませんよ。わかりやすく感情を出すタイプじゃないし、一緒に頑張ってきた先輩たちがいなくなる寂しさを、見せたくなかったのかも」


 だから、そうした感情を堪えるあまり、いつも以上にわけのわからないボケを、黒羽さんの前でやらかしたんじゃないかな。
 実際に見たかのように想像できる光景に納得して、1人でうんうんと頷いてたら、


「……佐伯さん?」


 ふいに生じた違和感。

 楽しかったやりとりに、変な空白ができた。
 なぜか佐伯さんが沈黙したんだ。


「あのさ……ちょっと気になったんだけど」


 しばらくして、口を開いた佐伯さん。
 でもその声からは、戸惑うというか納得がいかないというか、そんな気配が伝わってくる。
 どうしたんだろう?


「はい、なんですか?」


 今の会話に、おかしなところはあったっけ?
 佐伯さんは、一体何が気になったんだろう。

 疑問を受け入れる態勢で、次の言葉を待つわたし。
 すると、とても硬い声で、その問いかけは投げられた。


「ダビデのこと、名前で呼んでるの?」










 1つ上の人たちがほとんどな中の、貴重な同学年。
 共通点といえばそれだけで、佐伯さんに会わなければ、ずっと知らない人だった。
 そんな天根ヒカルくんとは、全国大会の応援で顔を合わせた時に、ようやく普通に話せるようになったんだ。

 別に、盛り上がるほど話ができたわけじゃない。それでも、一緒にいるのは苦じゃなかった。
 正直、彼はボソッとダジャレを言う、わけのわからない人ってイメージだったから、謎すぎて苦手意識があったのね。
 それが払拭されただけでも、わたしにはすごいことで、せっかくだからこれを機に、もう少し彼を知ろうと思ったんだ。

 そして生まれた、ささやかな問題。
 みんなは彼をダビデと呼ぶけど、「ダビデくん」と口にするのは、何かしっくりこなくて。
 そこで、思いきって本人に聞いてみたんだ。


「天根くんとヒカルくん。呼ばれるなら、どっちがいい?」


 天根くんは他人行儀すぎるし、ヒカルくんは馴れ馴れしすぎる。
 そう思ったらなかなか選べなくて、ならいっそ、本人の好みに合わせようと思って。

 それに対して、ヒカルくんは真面目な顔で考える。
 そこまで悩むことかと思ったけど、彼は本当に真剣に考えてたのね。

 そして、ついに言ったんだ。
 真剣に考えた末に生み出した、渾身の一言を。


「聞くは一時の恥、ヒカルは一生の恥」
「……はい?」


 あの時の、どや顔は忘れない。
 そして、「聞かぬ」と「ヒカル」をかけていたことになかなか気づけなかったわたしに、失望した顔も忘れない。
 ヒカルくん的には会心の出来でも、いきなりそんなことを言われたこっちは……ねえ?


「あのさー、ボケるなら、もっとわかりやすくボケてよ。突っ込めないボケって、結構つらいよ」
「あんなにわかりやすいのはないよ。これがバネさんなら、ちゃんとわかってくれてた」
「……そうかなあ?」


 結局、ヒカルにかけたネタを扱ったことが決め手で、彼の呼び名は「ヒカルくん」になった。
 もしこの時、天根にちなんだボケをされたら、間違いなく「天根くん」になっていたはず。
 彼の呼び方がヒカルくんになったのは、ただそれだけのことなんだ。

 ただそれだけのことなんだけど――


「俺のことは名字なのに?」


 気分を害したと言わんばかりの、低めの声で言われて、ようやくわたしは気がついた。
 これはまずい。
 どんな理由であれ、彼氏よりも彼氏の後輩を親しげに呼ぶって、ダメすぎじゃん!


「あ! でも別に、変な意味はないんです。本当に!」
「変な意味って、どういう意味?」
「どういう意味って……」


 変なボケを見せられて、たまたまそうなっただけで、ヒカルくんとどうこうってことはない。
 でも、それを言ったとして、今の佐伯さんにちゃんと伝わるのかな。

 ……わたしが好きなのは佐伯さんだって、わかってもらえないのかな。

 その不安が、口を重くする。
 声が出せない。出てこない。
 ついには、わたしまで嫌な沈黙を作ってしまい、そのため、受話器の向こうの佐伯さんのため息が、悲しいくらいよく聞こえた。


「ごめん。ちょっと面白くない」
「佐伯さん……」
「佐伯さん、かあ……」


 佐伯さんの言いたいことはわかる。
 というより、それに関しては、以前から考えていた。
 名字にさん付けって、どこか他人行儀だし、わたしのことを「ちゃん」と呼んでくれるように、わたしだって、いつか佐伯さんのことを、名前で呼びたいって思ってたんだ。


「その……ずっとそうだったから。なかなか、変えるきっかけがなくて」
「確かに、抵抗はあるよな。いきなり変えるのは、不自然だし」


 それを聞いて、しばし考えた佐伯さんは、


「じゃあ、俺が名前で呼んでほしいって言ったら、それは変えるきっかけになる?」


 いつかは変えたいと思っていた。
 佐伯さんじゃなく、虎次郎さんって。

 でも、こんなふうにお願いされるなんて、思ってもみなかった。
 思ってもみなかったけど、この絶好の機会を逃すわけにはいかない。


「な、なります……」


 いつの間にか、喉はカラカラに渇いていて、そう答えるのが精一杯。
 しかもこれは、思った以上に試練だった。
 だって今、初めてキスした時に負けないくらいの、とてつもない緊張感に襲われている。

 虎次郎という名前を呼ぶことを許されるのは、つまりそれだけ近い場所に、わたしの存在を許してくれているから。
 虎次郎。口にするにはわずかな音だけど、その短い音が、今わたしに、ありえない速さの鼓動を打ち出させていた。心臓が大変だ。

 恐ろしく固まるわたしに、さっきまで不機嫌だった佐伯さんが、宥めるように優しく笑う。


「そんなに緊張しなくていいよ。じゃあさ、俺も呼び方変えるから、2人で一緒に言ってみよう」
「は、はい」


 ――って、思わず同意しちゃったけど、わたしの呼び方を変える?
 一体どう変えるのかと疑問に思ったけど、次の瞬間、それは唐突に飛び出した。





 呼び捨て……!!


 うわ、どうしよう。ただ名前を、呼ばれただけなのに。
 でも、そのままの自分を口にされるのって、すごく恥ずかしいけど、すごく嬉しい。

 じゃあ、わたしが名前を呼んだら、佐伯さんにも同じ感動が生まれるのかな?
 わたしが名前を呼ぶだけで、ドキドキしてくれるのかな?

 それを願って、わたしは言った。
 思いきって、彼の名を。


「とらじろうさん」

























「……こじろう、なんだけど」


 未だかつてない間があいた後、絞り出すようにそう言われた。


 風船の中身が一気に抜ける、まさにそんな感じで、張りつめた空気が一変する。
 もし、目の前に本人がいたら、恐らくがっくりと、膝をついていただろう。
 いや、もう今すでに、携帯電話片手にそうなっているかもしれない。

 冗談が言える空気じゃないのは明白だった。
 つまり残念なことに、わたしは本気で、ああ言ったわけでして……。


 で、でも、なんでそう思ったかも、ちゃんと聞いてほしい!

 わたしはこれまで、佐伯さんが周りの人たちに、「サエ」「サエさん」「佐伯」と呼ばれているとこしか見ていない。初めて会った時も、不二先輩に、「六角中の佐伯だよ」って言われただけだ。
 手紙だって、名前にふりがながあったわけじゃない。
 しかも電話は佐伯さん直通で、家へかけるみたいに、「虎次郎さんいますか?」って聞くこともないんだもの。


 つまりわたしは、一度だって、彼の名前が「こじろう」である事実に、触れたことがなかったわけ。

「こじろう」だって、知らなかったわけ!


 そうした、名前を間違えたやんごとない事情を、懸命に説明するものの、


「まあ、確かにそのまま読めるしね。何より、素直なことは大事だよ、うん。だから、その素直さは、大事にしていってほしいけど……」


 気の抜けた声でそう言われ、最後の方は霞んで消えた。

 確かに、素直にそのまま読みました! 虎を訓読みで読みました!


 まさか今になって、自分の名前を間違われると思わなかった佐伯さんは、精神的にかなりの衝撃を受けたらしい。

 その後、必死で「こじろうさん」と連呼したものの、ショックが尾を引きすぎてか、「うんうん、ありがとう、ちゃん」と、軽くスルーされるだけ。
 それで結局、互いの呼び方はもとのままに。
 思わぬ事実が発覚したため、わたしたちは呼び方を親密に変えるチャンスを、逃すことになってしまった。

 そして、現在に至るのです。



◇   ◆   ◇   ◆   ◇



 ……思い出すと、いろんな意味で恥ずかしい。

 佐伯さんには、本当に申しわけないことをした。

 でもこの様子だと、しばらくはチクチクいじられそうだな。
 残暑見舞いのとらじろうを見て、わたしは苦笑する。


 とりあえず、速く返事を出すことにしよう。
 そして、彼の名前を覚えたことをしっかりアピールするためにも、あて名は一字一字力を込めて、わかりやすく書かせてもらおう。


 さえきこじろう様って。

 もう、とらじろうなんて言わない心意気で。

−END−

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 名前の読み方が複数あると、どちらが正しいか、迷って困るよね。
 でも、虎次郎はこじろうだと思う(笑)
 とはいえ、一度そうだと思い込むと、修正するのは大変なのです。

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2010.10.01

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