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郵便屋さんが届けてくれた、1枚のハガキ。 それは大好きなあの人から、わたしへ向けてのメッセージ。 以前は1日に何度もポストを覗きに行って、家の前をバイクが通るたび、もしや郵便配達の人かと、敏感に反応してたものだけど。 でも最近は、電話でのやりとりが増えてきて、少しずつ手紙の頻度は減っていった。 わたしと佐伯さんの絆を紡いだ、文通という形が失われつつあるのは、少し寂しい気もする。 けど、声が聞きたい時に即対応できる、電話でのやりとりが増えたことは、わたしたちの親密さが増した証でもあると思うんだ。 そもそも初めて会った時、電話番号を聞かれたことに、わたしは抵抗したんだから。 それが今や、電話が普通になろうとしているんだから、本当に未来はわからないものよね。 そんなことを思いつつ、久々に届けられた佐伯さんからのハガキを見る。 残暑お見舞い申し上げます。 毎日暑いけど、元気にしてる? こっちはいつものごとく、楽しく海で遊んでるけど(受験生にも息抜きは必要だからね)、 半端じゃない暑さのせいか、人が多すぎて、ちょっとげんなり気味。 今年は合宿で千葉に来てくれたけど、来年の夏もぜひ来てほしいです。 その時は、一緒に海で遊ぼう。 佐伯虎次郎 ごく普通に書かれた1年先の約束。 それを見た時、思わず胸が高鳴った。 大好きな人の未来予想図に、わたしがいる。 たった数行の文章が、とてつもない幸福感を与えてくれた。 ああ、わたしやっぱり、これからも文通を続けていきたいな。 だって彼の文字で、彼の選んだハガキや便箋で、その時々の思いが寄せられるんだもの。 電話は電話でいいけれど、この暖かで優しい繋がりは、これからも守っていきたい。 でも、そんな決意を固める傍ら、少々気になることもあった。 実は、最後に書かれた名前の隣に、えらく目を引く存在があって。 それは、佐伯さん手描きのトラの絵。 ぶさかわいいと形容できる謎のトラが笑顔で描かれていて、さらにその下には、「とらじろう」との名前がある。 それを見た時、思わずため息がこぼれ出た。 「……佐伯さんって、結構根に持つタイプだよね」 とはいえ、もとを正せば、わたしが悪いんだけど。 でも、決して悪気があったわけじゃないんだ。 この絵が示すもの――それはつい先日の、電話でのやりとりにあった。 全国大会が終わり、わたしと佐伯さんは、また頻繁には会えない距離に戻っていった。 でもこの夏は、合同合宿のお手伝いやら応援やらで、意外と会えた方じゃないかな。 ただ、不満はないとはいえ、満足しているわけでもない。 だって、せっかく夏休みなのに、2人で過ごす時間が、これで終わりだなんて。 そう思ったら寂しくて、佐伯さんの姿を思い描くうちに、頭から消えなくなって……そして、無性に声が聞きたくなってしまった。 「あの、と申しますが」 「もっと普通でいいんだよ、ちゃん。出るのは俺なんだから」 佐伯さんに電話する時は、いつも緊張する。 変に畏まるわたしを、佐伯さんは笑うけど、こればっかりはしょうがない。 わたしは携帯電話を持ってないし、友人たちもそういう子がほとんどだから、かけるとしたら、それぞれの家の固定電話になるのね。 その際、即座に本人が出てくれるとすごく助かるけど、でもそれが当たり前だと言われると、少し戸惑ってしまう。何しろ、一番慣れている最初のやりとりは、相手の家族との応対だから。 でも堅いのは、あくまで最初だけ。 そこを過ぎれば、いつも通りになって、あらためてわたしたちの時間が始まる。 「そういえば、今日の部活は大変だったよ」 「どうして?」 「剣太郎が号泣しちゃって」 佐伯さんたち3年生は、今日正式に部活を引退したらしい。 まあ、引退したとはいえ、これからもちょくちょく顔は出すんだろうけど、それでもきちんとした区切りは必要だものね。 そこで3年生が1人ずつ挨拶をして、1年生部長にこれまでの感謝を述べていったら、最終的に彼の涙腺は決壊してしまったみたい。 「まあ、こっちはそれを狙ってたんだけど。剣太郎は期待を裏切らなかったよ」 「後輩を泣かすなんて、ひどい先輩だなあ」 でも、涙が止まらなくなった葵くんを、きっと佐伯さんたちは、一生懸命なだめたんだろうな。 それで、優しいみんなを前に、彼の涙はまた溢れ出して。 容易に想像がつく状況に、こちらも思わず笑顔になる。 「バネのヤツは、最後だからビシッと決めたかったみたいだけど、ダビデがチャチャ入れたせいで、やっぱり相変わらずだった」 ……こっちも容易に想像がつくな。 でもそこからは、もう1つ、違う様子も窺えた。 「それ、ヒカルくんも泣きそうだったのかもしれませんよ。わかりやすく感情を出すタイプじゃないし、一緒に頑張ってきた先輩たちがいなくなる寂しさを、見せたくなかったのかも」 だから、そうした感情を堪えるあまり、いつも以上にわけのわからないボケを、黒羽さんの前でやらかしたんじゃないかな。 実際に見たかのように想像できる光景に納得して、1人でうんうんと頷いてたら、 「……佐伯さん?」 ふいに生じた違和感。 楽しかったやりとりに、変な空白ができた。 なぜか佐伯さんが沈黙したんだ。 「あのさ……ちょっと気になったんだけど」 しばらくして、口を開いた佐伯さん。 でもその声からは、戸惑うというか納得がいかないというか、そんな気配が伝わってくる。 どうしたんだろう? 「はい、なんですか?」 今の会話に、おかしなところはあったっけ? 佐伯さんは、一体何が気になったんだろう。 疑問を受け入れる態勢で、次の言葉を待つわたし。 すると、とても硬い声で、その問いかけは投げられた。 「ダビデのこと、名前で呼んでるの?」 1つ上の人たちがほとんどな中の、貴重な同学年。 共通点といえばそれだけで、佐伯さんに会わなければ、ずっと知らない人だった。 そんな天根ヒカルくんとは、全国大会の応援で顔を合わせた時に、ようやく普通に話せるようになったんだ。 別に、盛り上がるほど話ができたわけじゃない。それでも、一緒にいるのは苦じゃなかった。 正直、彼はボソッとダジャレを言う、わけのわからない人ってイメージだったから、謎すぎて苦手意識があったのね。 それが払拭されただけでも、わたしにはすごいことで、せっかくだからこれを機に、もう少し彼を知ろうと思ったんだ。 そして生まれた、ささやかな問題。 みんなは彼をダビデと呼ぶけど、「ダビデくん」と口にするのは、何かしっくりこなくて。 そこで、思いきって本人に聞いてみたんだ。 「天根くんとヒカルくん。呼ばれるなら、どっちがいい?」 天根くんは他人行儀すぎるし、ヒカルくんは馴れ馴れしすぎる。 そう思ったらなかなか選べなくて、ならいっそ、本人の好みに合わせようと思って。 それに対して、ヒカルくんは真面目な顔で考える。 そこまで悩むことかと思ったけど、彼は本当に真剣に考えてたのね。 そして、ついに言ったんだ。 真剣に考えた末に生み出した、渾身の一言を。 「聞くは一時の恥、ヒカルは一生の恥」 「……はい?」 あの時の、どや顔は忘れない。 そして、「聞かぬ」と「ヒカル」をかけていたことになかなか気づけなかったわたしに、失望した顔も忘れない。 ヒカルくん的には会心の出来でも、いきなりそんなことを言われたこっちは……ねえ? 「あのさー、ボケるなら、もっとわかりやすくボケてよ。突っ込めないボケって、結構つらいよ」 「あんなにわかりやすいのはないよ。これがバネさんなら、ちゃんとわかってくれてた」 「……そうかなあ?」 結局、ヒカルにかけたネタを扱ったことが決め手で、彼の呼び名は「ヒカルくん」になった。 もしこの時、天根にちなんだボケをされたら、間違いなく「天根くん」になっていたはず。 彼の呼び方がヒカルくんになったのは、ただそれだけのことなんだ。 ただそれだけのことなんだけど―― 「俺のことは名字なのに?」 気分を害したと言わんばかりの、低めの声で言われて、ようやくわたしは気がついた。 これはまずい。 どんな理由であれ、彼氏よりも彼氏の後輩を親しげに呼ぶって、ダメすぎじゃん! 「あ! でも別に、変な意味はないんです。本当に!」 「変な意味って、どういう意味?」 「どういう意味って……」 変なボケを見せられて、たまたまそうなっただけで、ヒカルくんとどうこうってことはない。 でも、それを言ったとして、今の佐伯さんにちゃんと伝わるのかな。 ……わたしが好きなのは佐伯さんだって、わかってもらえないのかな。 その不安が、口を重くする。 声が出せない。出てこない。 ついには、わたしまで嫌な沈黙を作ってしまい、そのため、受話器の向こうの佐伯さんのため息が、悲しいくらいよく聞こえた。 「ごめん。ちょっと面白くない」 「佐伯さん……」 「佐伯さん、かあ……」 佐伯さんの言いたいことはわかる。 というより、それに関しては、以前から考えていた。 名字にさん付けって、どこか他人行儀だし、わたしのことを「ちゃん」と呼んでくれるように、わたしだって、いつか佐伯さんのことを、名前で呼びたいって思ってたんだ。 「その……ずっとそうだったから。なかなか、変えるきっかけがなくて」 「確かに、抵抗はあるよな。いきなり変えるのは、不自然だし」 それを聞いて、しばし考えた佐伯さんは、 「じゃあ、俺が名前で呼んでほしいって言ったら、それは変えるきっかけになる?」 いつかは変えたいと思っていた。 佐伯さんじゃなく、虎次郎さんって。 でも、こんなふうにお願いされるなんて、思ってもみなかった。 思ってもみなかったけど、この絶好の機会を逃すわけにはいかない。 「な、なります……」 いつの間にか、喉はカラカラに渇いていて、そう答えるのが精一杯。 しかもこれは、思った以上に試練だった。 だって今、初めてキスした時に負けないくらいの、とてつもない緊張感に襲われている。 虎次郎という名前を呼ぶことを許されるのは、つまりそれだけ近い場所に、わたしの存在を許してくれているから。 虎次郎。口にするにはわずかな音だけど、その短い音が、今わたしに、ありえない速さの鼓動を打ち出させていた。心臓が大変だ。 恐ろしく固まるわたしに、さっきまで不機嫌だった佐伯さんが、宥めるように優しく笑う。 「そんなに緊張しなくていいよ。じゃあさ、俺も呼び方変えるから、2人で一緒に言ってみよう」 「は、はい」 ――って、思わず同意しちゃったけど、わたしの呼び方を変える? 一体どう変えるのかと疑問に思ったけど、次の瞬間、それは唐突に飛び出した。 「」 呼び捨て……!! うわ、どうしよう。ただ名前を、呼ばれただけなのに。 でも、そのままの自分を口にされるのって、すごく恥ずかしいけど、すごく嬉しい。 じゃあ、わたしが名前を呼んだら、佐伯さんにも同じ感動が生まれるのかな? わたしが名前を呼ぶだけで、ドキドキしてくれるのかな? それを願って、わたしは言った。 思いきって、彼の名を。 「とらじろうさん」 「……こじろう、なんだけど」 未だかつてない間があいた後、絞り出すようにそう言われた。 風船の中身が一気に抜ける、まさにそんな感じで、張りつめた空気が一変する。 もし、目の前に本人がいたら、恐らくがっくりと、膝をついていただろう。 いや、もう今すでに、携帯電話片手にそうなっているかもしれない。 冗談が言える空気じゃないのは明白だった。 つまり残念なことに、わたしは本気で、ああ言ったわけでして……。 で、でも、なんでそう思ったかも、ちゃんと聞いてほしい! わたしはこれまで、佐伯さんが周りの人たちに、「サエ」「サエさん」「佐伯」と呼ばれているとこしか見ていない。初めて会った時も、不二先輩に、「六角中の佐伯だよ」って言われただけだ。 手紙だって、名前にふりがながあったわけじゃない。 しかも電話は佐伯さん直通で、家へかけるみたいに、「虎次郎さんいますか?」って聞くこともないんだもの。 つまりわたしは、一度だって、彼の名前が「こじろう」である事実に、触れたことがなかったわけ。 「こじろう」だって、知らなかったわけ! そうした、名前を間違えたやんごとない事情を、懸命に説明するものの、 「まあ、確かにそのまま読めるしね。何より、素直なことは大事だよ、うん。だから、その素直さは、大事にしていってほしいけど……」 気の抜けた声でそう言われ、最後の方は霞んで消えた。 確かに、素直にそのまま読みました! 虎を訓読みで読みました! まさか今になって、自分の名前を間違われると思わなかった佐伯さんは、精神的にかなりの衝撃を受けたらしい。 その後、必死で「こじろうさん」と連呼したものの、ショックが尾を引きすぎてか、「うんうん、ありがとう、ちゃん」と、軽くスルーされるだけ。 それで結局、互いの呼び方はもとのままに。 思わぬ事実が発覚したため、わたしたちは呼び方を親密に変えるチャンスを、逃すことになってしまった。 そして、現在に至るのです。 ……思い出すと、いろんな意味で恥ずかしい。 佐伯さんには、本当に申しわけないことをした。 でもこの様子だと、しばらくはチクチクいじられそうだな。 残暑見舞いのとらじろうを見て、わたしは苦笑する。 とりあえず、速く返事を出すことにしよう。 そして、彼の名前を覚えたことをしっかりアピールするためにも、あて名は一字一字力を込めて、わかりやすく書かせてもらおう。 さえきこじろう様って。 もう、とらじろうなんて言わない心意気で。 −END−
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