「え? あの……佐伯さん?」
「ん、何?」
「何、じゃなくて……本当に、ここで間違いないんですか?」
「ああ。これ以上ない、とっておきの隠れ家さ」


 わたしたちをつけ回す、暇人さんたちを振り切った末、2人きりになれる場所として、佐伯さんが選んだ場所。
 それを見た瞬間の、わたしの驚きを、どう伝えたらいいだろう?

 相手の意表を突くという意味では、確かにとっておきの場所かもしれない。
 だって、味方のはずのわたしでさえ、思いっきり意表を突かれたんだもの。
 だから何度も、間違いないかと念を押した。
 いつ彼が、「ははっ、冗談だよ」と言ってもいいように、「もうっ、佐伯さんったら☆」と、かわいく返せる準備を整えていた。

 でも結局、佐伯さんはとても普通に、「じゃあ、行こうか」と、本当にそこへと足を踏み入れてしまったのだ。


「黒羽」と表札のかかった、1件のお宅へと――



夏のお嬢さんたち 後編



「こんにちはー」
「えっ? ええっ!?」


 まるで自宅のような気軽さで玄関のドアを開け、黒羽家へと上がり込む佐伯さん。
 手を引かれているわたしも、自然に続く形になる。

 わたしにとっては、初めてお邪魔する、見知らぬ家。
 でも、表札を見る限り……やっぱり、合宿所でずっと顔を合わせていた、あの黒羽さんのお宅で、間違いない……のよね?

 そんなことを考えながらそわそわしていると、佐伯さんの声を受けて、奥から「はーい」という声と共に、1人のおばさんが顔を出した。

 ……間違いなく、黒羽さんと同じ遺伝子を共有する顔だ。
 やっぱりここは、黒羽さんの家で間違いないんだ。


「こんにちは、虎次郎くん。あら……?」


 黒羽さんのお母さんは、わたしを伴った佐伯さんを見て、ちょっと驚いていた。
 でも佐伯さんは、お母さんの驚きもわたしの戸惑いも無視したまま、ごくごく自然に会話を続ける。


「おばさん、バネいるかな?」
「あら、今ってまだ、合宿中じゃなかったの?」
「今日は、午後から自由行動になったんだ。で、ちょうど俺の彼女が来てくれたから、バネにも紹介しようと思ってさ。でも、携帯の電源切ってるみたいで、連絡がつかないんだよ。それで、もしかしたら家に戻ってるかと思ったんだけど。そうか、ここにもいないのか……」


 言って佐伯さんは、残念そうにうなだれた。
 な、何て白々しい演技を!
 でも、そんな佐伯さんをポカンと見ていたら、そのまま流れで、「俺の彼女のちゃん」って、黒羽さんのお母さんに紹介されちゃったわ。佐伯さんのお母様にも、まだご挨拶してないのに。

 それどころか、にこやかにわたしたちを迎え入れてくれたお母さんに、「じゃあ、上がって少し待ってたら? それでね、今から買い物行くつもりだったから、その間、お留守番頼まれてくれると嬉しいんだけど」なんて、お願いされちゃったんだけど!
 でもって佐伯さんが、あっさりそれを了承したもんだから、そのまま黒羽さんのお部屋に通されちゃったんだけど! 気さくすぎます、黒羽さんのお母さん。

 そんなわけで、とんとん拍子に、わたしと佐伯さんは、念願だった2人きりの状況を迎えることになりました。


「……もしかして、これを狙ってたんですか?」


 隣に座った佐伯さんの様子を窺いつつ、そう訊ねるわたし。
 黒羽さんのお母さんがくれたジュースを飲みつつ、こちらを見た佐伯さんは、これでもかってくらい、確信犯の顔をしていた。


「まさか向こうも、ちゃんを連れて、ここに来るとは思わないからね。でも、おばさんの外出と重なったのは誤算だよ。まあ、嬉しい誤算だけどね」
「とにかく、これでようやく、落ち着けるってわけですね」
「そういうこと」


 そう言って、2人で笑い合って…………………………お互い、その後の会話が続かないんですけど。

 実は、男の子の部屋に入るのって初めてなのです。
 そういう環境で2人きりになるのって、やっぱりどこか落ち着かないのです。
 ……まあ、よくよく考えれば、ここは佐伯さんの部屋じゃなくて、黒羽さんの部屋なんだけど。
 考えてもしょうがないとは思いつつも、でもやっぱり疑問は募る。
 なんでわたしは、彼氏の部屋へ行くより先に、彼氏の友達の部屋に来てるんだろう?

 そんな思わぬ場所で、思いがけず2人きりになって――だからなのか、途端にどうしていいか、わからなくなった。
 なんか……佐伯さんの方が見られない。
 2人で歩き始めた時もそうだったけど、でも今は、その時と比べものにならないくらい緊張している。
 佐伯さんがいる右側がすごく気になるのに、そっちに顔を向けられない。
 触れ合わんばかりの距離にある右半身だけ、不自然なくらい強張っている。

 ここに来るまでは、あんなにも、落ち着いて佐伯さんと過ごしたいと思ったのに。
 いざそうなると、やっぱりハンパじゃなく緊張する。
 しかも、わたしたちを追っていたみんなは、ここにいることを知らなくて、唯一知っている黒羽さんのお母さんも、今は出かけて、ここにはいない。
 この状況を妨害する者は、もう誰もいないんだ。


 わたしたちしか、いないんだ。


 どうしようどうしようどうしたらいいんだろう!
 せめて何か、楽しめる会話があるといいんだけど。
 でもでも、何を話したらいい? なんていうかこう、2人きりならではの状況を楽しめる、最適な会話って、一体何がある?

 そんなことを考えるのに、躍起になっていたせいで、


「今日も昼から、一段と暑くなりそうだね」
「へ? そ、そうですね!」


 ……せっかく佐伯さんから話しかけてくれたのに、うまく反応できませんでした。
 よって――再び沈黙。

 しまった! せっかくのチャンスだったのに、話を終わらせちゃった!
 しかも、最も無難な天気の話を! これがダメなら、ほんとにもう、ネタは限られてくるじゃない!
 今度は、わたしから何か話すべきだけど、でも、何がいいのかなあ?

 考えれば考えるほど、緊張が増す。
 そのせいで、ひどく喉が乾いてきた。
 そこで、乾いた喉を潤すために、ジュースに手を伸ばした……んだけど、


「きゃっ!」
「あっ!」


 緊張のあまり、手が滑って、派手にコップを倒してしまった。
 慌ててコップを立て直しても、後の祭り。
 わたわたしつつも、こぼれたジュースを拭くために、とりあえず、手近のティッシュに手をのばす。すると、同じことを考えていた佐伯さんとわたしの手が、ティッシュケースの上でピッタリと重なった。


「ご、ごめん。あっ!」


 そんなふいの接触に驚き、お互い慌てて手を引っ込めたら、今度は勢い余った佐伯さんの手が、もう1つのコップまで倒してしまった。結果、さらなる大惨事に。

 ああ、カーペットがジュースまみれ……。ごめんなさい、黒羽さん。
 結局、2人で苦笑いしながら、後始末をすることになりました。

 でもその時、ジュースを拭きながら、佐伯さんは重々しくため息をこぼした。


「……ごめん」
「え?」


 突然の謝罪。でも、それの意味するところが掴めない。
 だって、最初にジュースをこぼしたのはわたしだから、こうなった責任は、わたしにあるはずなんだもの。
 でも、そんなわたしの考えを見抜いた佐伯さんは、「そうじゃなくて」と、苦い顔で説明した。


「なんかさ……緊張しすぎて。かっこ悪いよな、俺」
「……佐伯さん、緊張してたんですか?」


 本気で驚いた。だって、これまでの佐伯さんのどこに、緊張要素があったっていうの?
 それくらい、わたしから見た佐伯さんは、普段と変わりなかったのに。


「うん。ちゃんも緊張してるのわかったから、俺がしっかりしなきゃって思ってさ。……でも実際は、うまくいかないもんだね。あんなに2人きりになりたかったのに、いざ2人だけになると、どうしていいかわからなくなる」


 それを聞いて、思わず笑いがこぼれ出た。


「なんだ。わたしたち、同じだったんだ」


 そのことが、なんだか無性に嬉しかった。
 わたしたち、お互いを想っての行動を、ちゃんと取れてたんだ。
 普段は会えないという、不満と不安があっても、距離なんかに負けてなかったんだね。

 それがわかって、ようやく佐伯さんにも笑顔が戻る。


「今度会えるのは、全国大会かな」
「はい。しっかり応援に行きます」
「じゃあその時、改めて2人でどこかに……って、それだとまた、連中に後をつけられることになりそうだ」


 確かに。わたしたちを応援しつつも邪魔をする、愛すべき困った人たちは、きっと今後も、協力してくれるようでしてくれないんだろうな。


 間もなく訪れるだろう、その日のことを想像して、思わず笑い合うわたしたち。
 ようやく、同時に向き合えた。そう思った。

 わたしの瞳に佐伯さんが映り、佐伯さんの瞳にわたしが映る。
 そんな、些細だけどかけがえのない瞬間に――わたしたちは、初めてのキスをした。



◇   ◆   ◇   ◆   ◇



 それからしばらくして、黒羽さんのお母さんが帰ってきた。
 そして、黒羽家を後にするわたしたち。距離が縮まったのを実感したからか、お互いの心は晴れ晴れとしていた。
 つけ回されてもかまわない。冷やかされたってかまわない。そう思えたからか、わたしたちは、いつしか自然に手を繋いで歩いていた。


「何か、本懐を遂げたって感じ?」
「あのですね、否定はしないけど、もうちょっと言い方が……」
「そうだね。俺としては、心身共にさらなる接触を試みたいから、ここで満足してちゃダメだよな」
「し、心身共にさらなる接触?」


 さっきまで、とても殊勝な態度だったのに、この変わりっぷりはなんですか?
 でも、露骨な中にも、やっぱり気品のような爽やかさがあるんだよなあ、佐伯さんって。
 まあ、単に、「恋は盲目」ってヤツかもしれないけど。ええ、ちゃんと自覚してますとも。わたしは、佐伯虎次郎にベタ惚れなのですよ。


「まあ、さすがに今回は緊張しすぎて、それどころじゃなかったけど。それ以前に、場所もちょっとなあ……」


 あー……うん。確かに、初めての場所が、黒羽さんの部屋ってのは……。
 あそこを選んだのは佐伯さんだけど、やっぱりどこか引っかかってたんだ。


 そんなふうに、黒羽さんのことを考えていたからか、どこからか聞こえてきた「えっ?」という声が、なんだか黒羽さんの声っぽく聞こえ……って、えっ?

 慌てて顔を上げると、黒羽家の目の前にある通りには、わたしたちを捜索していたと思われる、青学・六角混合チームの姿が。
 その中には、この家の子である、黒羽さんもいて。
 彼は、自分の家から出て来たわたしたちを見て、当然のごとく驚いていた。


「おまえら、なんで俺ん家から出て来るんだ?」


 黒羽さんの疑問は、もっともなもの。
 すると佐伯さんは、ものすごくいい笑顔を浮かべた後、おもむろにわたしの肩を抱き寄せて、こう言ったのだ。


「ちょっと部屋を借りたよ。でも、部屋の換気はちゃんとしといたから、あまり気にするな、バネ」


 いや、別に換気が必要なことはしてませんが。
 だってわたしたちは、ただ一緒にいただけで……でも、一緒にいたからこそ、あの出来事はあったわけで。

 それを考えた途端、唐突によみがえる先程の光景。
 今までにない近距離で見た、佐伯さんの顔。初めて触れた、佐伯さんの唇。そして、柔らかな感触――わたしが一気に真っ赤になるには、十分すぎる条件だった。

 そんなわたしを見て、今度は黒羽さんが真っ青になる。


「換気って、ちょっ……おまえら、一体俺の部屋で何したんだー!?」


 してないしてない、やましいことは何1つしてません。わたしたちは健全潔白です。
 そして、慌てふためく黒羽さんを面白そうに眺めながら、そっと耳打ちする佐伯さん。


「まあ、俺らの愛が醸し出す空気は、独り身のバネにはきついだろ?」


 ああ、そういうこと……。

 でも当の黒羽さんも、他のみんなも、そんなふうには受け取ってくれなかったみたい。
 これは、帰った後、よりいっそう騒がしくなりそうだな。
 ああ、明日以降が、また大変だ。

−END−

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 いつもは飄々としているサエさんも、いざという時には、大いに慌てるといいです。
 でも全体的には、やっぱり彼の方が優位なんだろうな。

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2006.09.24

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