推薦入試を受け、周囲のみんなより、一足早く大学合格をもぎ取ったわたし。
 まだ受験戦争真っ只中な友人たちに、「空気読め!」と怒られつつも、そう遠くないうちに始まる新生活に思いを馳せて、そりゃもう全力ではしゃいでいた。

 だって、ようやく受験勉強から解放されるんだもの!
 でもって春から、待ち望んだ大学生になれるのよ!

 まずは冬休みから、さっそくバイトを初めよう。
 それで、華麗なる大学デビューに備えるんだ。

 でも、選り好みしてるつもりはないのに、なかなかしっくりくる仕事が見つからなくて。
 そうして情報誌を睨みつつ、何度となくページをめくっていたら、友人の宍戸から、こんな言葉をかけられた。


「なあ、。バイト探してんなら、うちの弟の家庭教師なんてどうだ?」


 その一言をきっかけに、わたしは彼の弟、亮くんの家庭教師をやることになったんだ。

 どうやら亮くんは、部活に夢中になりすぎたせいで、勉強面で高等部への進学が、ちょっぴり危ぶまれているらしい。
 エスカレーター式の学校って、よっぽどのことがなければ、そのまま上がれるはずなんだけど……。
 でも、彼の成績表を見てみたら、そのよっぽどのことが起きそうな、悲惨な気配が漂っていた。

 ただ、そんな深刻な相手に対して、そこそこの成績しかない勉強嫌いのわたしを家庭教師に据えるのは、さすがに無謀すぎないか?
 そう思って聞いてみたら、宍戸はあっさり、「と亮って気が合いそうだし、それなら何とかなるんじゃね?」なんて答えてくれた。
 ……おいおい。弟の人生かかってるんだから、人選はちゃんとしてあげなよ。


 けど腹の立つことに、宍戸の見る目は、一応確かだったらしい。


 こんなわたしだからこそ、同じように勉強嫌いの亮くんとは、実際とても気が合った。
 だから、わたし自身がやっていた勉強法は、亮くんにも合っていたみたいで。
 おかげで、わたしが家庭教師になってから、亮くんの成績は飛躍的に上昇した。……まあ、単に悪すぎたのが、平均に戻っただけなんだけどね。
 それでもご両親はもちろん、亮くん本人にも、これで心おきなく部活に集中できると、大いに喜ばれたんだ。

 このバイトは一時的なものだったけど、どうせ亮くんは、高等部でも部活に明け暮れて同じことを繰り返すからと、家庭教師はそのまま正式採用された。
 そして、亮くんにとって気心の知れた仲間となったわたしは、いつしかテニス部の仲間たちにも紹介されることになったんだ。


 そのうち、わたしと亮くんのみの勉強会にも、たまにみんなが顔を出したり(最初は茶化すだけだったけど、少し勉強を見てあげたことで、向日岳人くんという、新たな顧客を正式にゲットしたのです!)、勉強会後に一緒にお茶を飲むようになったりして。そんなふうに、たびたびみんなとは顔を合わせるようになった。

 特に跡部景吾くんは、毎回マメに来てくれたから、すごく仲良くなって。
 そして気がつけば、わたしは彼に、押し倒されていたのです。


 ……あれ?





発 展

〜 何に? 〜



 激しく鼓動する心臓。
 それを宥めようと胸に手を当てるけど、落ち着こうとすればするほど、緊張は増していった。

 ボタンが飛び散ったブラウスをかき合わせて、どうしてこんなことになったのかを、必死で考える。
 でも原因なんて、考えるまでもなく、あっさり見つかった。

 原因はわたし。これまでの、わたしの言動。
 わたしを好きだと言った彼を、ことごとく無視し続けたこと――その結果が、これだった。





 ドア越しにかけられた低い声に、思わず身が竦む。
 いつもなら、「年上なんだから、ちゃんとさんって呼びなさい」って言うとこなのに、喉がはりついて声が出ない。


 押し倒されて、キスされて、問答無用でその先へ進もうとした彼を必死で払いのけ、わたしは鍵のかかる唯一の部屋、トイレへ逃げ込むことに成功した。

 何で、跡部くんに「会いたい」と言われた時、「じゃあ、うちにおいでよ。今日は家に誰もいないし、遊んでくれる人もないから退屈でさー」なんて、答えちゃったんだろう。
 彼がこうした実力行使をはかるのに、絶好の環境を、自ら用意してしまった。
 ほんと、気楽すぎた自分が恨めしい……。


 そして今、トイレのドア1枚を隔てて、わたしと跡部くんは膠着状態にあった。

 跡部くんは退こうとしない。だからわたしは、ここから出るに出られない。
 早くいなくなってほしいと切に願うけど、それが聞き届けられる様子は、残念ながら微塵もなかった。


「謝らないからな」


 束の間、この身に重なった、わたし以外の体温と感触。
 彼の言葉が、必死で忘れようとしているそれらを、さらに強く思い出させる。


「子供扱いで俺の気持ちを疑うなら、子供じゃないことを証明するしかないだろう。それ以外、他にどんな方法があるんだよ!」


 言って、激しく拳をぶつけ、ドアとわたしを震え上がらせる。
 彼が怒るのは無理もないけど、だからって、わたしにはどうすることもできなかった。


 大学生のわたしと、高校生の跡部くん。
 3つ下の彼からの告白は、嬉しかったけど、素直に受け入れるには抵抗があった。

 だから、困った末にとった手段が、子供扱い。
 単に年上が物珍しいだけの、いわば錯覚のようなものだと、彼にも自分にも、そう言い聞かせた。言い聞かせ続けた。


 当然、彼は反論した。
 そして、日を改めてまた告白され、わたしはまたそれを退けて。
 それを幾度か繰り返し、ついに今日、彼は強行手段に出たのだ。


 大人っぽい、落ち着いた子だからと油断した。
 どんなに大人びていたって、若さというのは、常に暴走する危険を孕んでいるのに。
 そして彼は、子供には決してできない方法で、わたしに己の気持ちを刻み込もうとしたんだ。


 確かに、好きな人に、好きな気持ちを否定されるのは悲しい。
 かといって、彼がとったこの方法に、納得できるわけじゃない。

 こんな手段をとった彼が許せなくて、でも、まだ心に幼さを残す彼に、これ以外に想いを示す道を見えなくさせてしまったことが申し訳なくて。
 彼の強い想いを叩きつけられた、衝撃の残る身体を抱きしめて、わたしはトイレの中で、ただただ泣いた。


「……謝らないからな」


 重く張りつめた空気の中、同じ言葉を告げる跡部くん。
 でも、今度は声に強さがない。
 ……多分、わたしが泣いているから。


 そして繰り返す。
 もう後には退けない、激しく募る想いを、ただただ繰り返す。



「もう、どうしようもねえんだよ」

「好きだ、

「好きなんだ」



 ただひたすらに、好きだと連呼する跡部くん。
 その言葉しか残らないほど、わたしのことだけを見つめている。
 泣きそうな気持ちで溢れている。


「跡部くん……」


 わたしと跡部くんの間にある、最後の砦。
 その1枚のドアを隔てて、彼に呼びかける。
 ずっと反応がなかったわたしからの声に、彼が一瞬、息を呑むのがわかった。


「景吾」


 でも、すぐにいつもの不遜な感じで、呼び方の訂正を求めてくる。

 どんなに注意されても、わたしを「」と呼び続けた彼。
 同様に、これまでどんなに求められても、決して呼ばなかった彼の名前。
 それを今、わたしは初めて口にする。


「……景吾くん」
「『くん』はいらねえ」
「ごめん」
「……そのごめんは、どういう意味のごめんだよ」
「ちゃんと考えてあげられなくてごめん」


 傷つけた。跡部くんを傷つけた。
 わたしに信じてもらえなくて。
 わたしを好きだと言ってくれた、そんな人を軽んじて、暴走させてしまった。


「どうしよう。ごめん。ごめんなさい」


 大学生のわたしと、高校生の跡部くん。
 3つ下の彼からの告白は、嬉しかったけど、素直に受け入れるには抵抗があった。

 だって、今や弟分である亮くんの友達と、恋人どうしになるなんて。
 それはわたしにとって、想像もつかない出来事だったんだ。

 そして、ひたすらごめんと繰り返すわたしに、跡部くんは何かを感じ取ったようで。


、ここを開けてくれ」


 言って、軽くドアを叩く。

 そばに行きたい――そう訴えられ、わたしは震える手で、恐る恐る鍵を開けた。

 それと同時に、勢いよく開け放たれるドア。
 すぐさま飛び込んできた彼に、わたしは勢いよく抱きしめられる。
 さっきはあんなに怖かったのに、もうその腕に恐怖感はなかった。


「悪かった」


 そして、泣きじゃくるわたしを懸命に宥める。

 謝らないって言ったくせに、意外と素直に謝るんだね。
 そんなことをボーッと考えていたら、跡部くんはあらためて、自分の想いをわたしに告げた。


「好きだ、。俺とつき合ってほしい」


 でもわたしは、激しく首を横に振る。


「無理だよ。自信ないよ。わたしと跡部くんは、3つも違うんだよ」
「だから、景吾だっての」


 泣き言を並べるわたしに、跡……いや、景吾は、苦々しく唇をぶつけてきた。
 それで、わたしの唇は塞がれる。どうやら、黙ってろってことらしい。


「……確かに、俺たちの歳の差はどうにもならない」


 言って、もう一度キス。それは柔らかくて、とても優しい。


「でも、そのことで不安になんかさせねえから」





 だから、俺の本質に触れもしないで、拒絶するのはやめてくれ。





 彼のその切実な訴えが、少しずつ、心の揺らぎを止めていく。

 そしてわたしは、ようやく落ち着いて考えられた。
 跡部景吾という、1人の人間のことを。


 考えて、考え抜いて、そして――










 教え子の友人で、友人の家庭教師。

 そんな間接的な間柄だったわたしたちは、この衝撃的な出来事をきっかけに、より直接的な間柄へと変化を遂げた。

2008.03.10


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